いい仲間の会例会100回達成記念コンテンツ

いい仲間が選ぶ世界の天才

着工:2003年12月6日 完成:2004年10月16日

 

発明王エジソンの言葉

Genius is 1% of inspiration, and 99% of perspiration.

“天才とは、1%のひらめきと99%の努力である”

「いい仲間が選ぶ世界の天才」完成!!

大勢の「天才」を推薦いただいたたくさんのいい仲間と
それを積極的に記事としてまとめていただいた
いい仲間の会の天才、フクちゃんに
最大の謝辞を申し上げます。

いい仲間会ホームページ管理人
2004年10月16日


 

ピアニスト=フジ子・ヘミング

Ingrid Fujiko v, Georgii-Hemming

フジ子・ヘミング
建築家・画家であるスウェーデン人の父親と、ピアノ奏者の日本人の母親のあいだに生まれ、幼いころからピアノの手ほどきを受け、天才少女と騒がれたものの、両親の離婚などの理由で10代後半に国籍を失い、国際舞台での音楽活動のチャンスを失い、難民パスポートでドイツに留学、そこで才能を認められてようやく栄光を掴もうとした矢先に、体調をくずして聴力を失ってしまう。その後、聴力の40%は回復するものの、細々と演奏活動やピアノ講師としてヨーロッパ中をあちこち滞在し(スウェーデン国籍を取得したのが、40歳を過ぎてからだそう)、5年前母親の死をきっかけに日本に帰国し、親類や知り合いのすすめで日本でもリサイタルを開き、大きな反響を呼んでいる・・・・

神様にただ、「ああしてください」「こうしてください」と
願い事をするだけではいけない。
もっといい状態を得たいと欲望だけをぎらぎらさせている人が多い。
いつも「どうもありがとう」と、
いま生かされていることへの感謝の気持ちを持たないと。

神から恩恵を受けていることを、
私は決して忘れはしない。
たとえ死にたいと思ったとしても、
その人の使命が終わるまでは決して死ねないものなのよ。


若い時はうぬぼれもありましたが、世間を渡り、人の演奏を聴いて自分の実力がわかるようになりました。チャンスというものは、掴み取るだけで成功とは限りません。私はチャンスを失ってどん底を知り、回り道をしたおかげで、人間的に成長できたように思います。自分にふさわしい時期がくるまでひたすら待つということも、大切なことだと知りました。

母が亡くなって日本に帰国し、テレビ放映されたのがきっかけで、有名人になってしまいましたが、これは神様が導いてくださったんだといまでも信じています。

人生は諦めたら終わり。私は苦しみながらも希望を捨てませんでした。人生をクヨクヨして渡らないことです。

いつも希望をもって、自分がいつも誰かに必要とされていることを忘れないでください。

清流出版
フジ子・ヘミングの「魂のことば」より


 

ピアニスト=ウワディスワフ・シュピルマン

Wladyslaw Szpilman

(戦場のピアニスト)

ウワディスワフ・シュピルマン 1911年12月5日〜2000年7月6日
ポーランド生まれ。幼少時より音楽に才能を示し、10代からワルシャワのショパン音楽院で、後にはベルリンに留学して、ピアノと作曲を学ぶ。33年にワルシャワに戻り、ピアニスト・作曲家としての名声を得て、35年にポーランド放送専属の音楽家になり、ピアニストとして活動。39年までに多数の映画音楽やリート、シャンソン、大衆歌を作曲。しかし、ドイツ軍がワルシャワに侵攻したため音楽活動を中断し、ドイツ軍占領下での生活が始まる。45年以降、再びポーランド放送で復帰。63年までポーランド放送局の音楽部門の主任を務め、その後はワルシャワ・ピアノ五重奏団の活動に専念する。

シュピルマンは、2002年に制作されたポーランドとフランスの合作映画、
ポランスキー監督『戦場のピアニスト』のモデルになったポーランドの
天才ピアニストです。

映画は見ていないのですが、原作の翻訳本を図書館から借りてきて、
目を通したところ、『戦場のピアニスト』と題されていますが、
実は音楽についての記述はほとんどありませんでした。
原作を読むまでは、てっきりナチスの迫害のもと、
ナチス親衛隊員のために日常的にピアノを弾き、
その特殊な才能ゆえに生きのびた話かと思っていましたが、
私の思い違いでした。

ドイツ軍による占領下、収容所に送られることをなんとか免れ、
たった独りワルシャワ市街で生き延びることになったシュピルマン自筆の
ドキュメンタリー(実話)だったのです。
あたりまえと言えばあたりまえなのですが、
「ピアニストとしてのシュピルマン」ではなく
「ユダヤ人としてのシュピルマン」のお話でした。

とはいえ、第2次世界大戦がやっと終焉を迎えようとしていた最中、
一人のドイツ人将校に発見されたのですが、
その将校の前でピアノを演奏し、結果的に命を助けられたことは、
この実話の中でのクライマックスでしょう。
というよりも、あの常識をはるかに逸脱した戦時下において、
善良で真っ当な心を持つドイツ人将校もいたのだということに、
改めて感銘を受けます。

DVDビデオを借りてきて見てみたいものです。

手元にそのシュピルマンのオリジナルアルバムがあります。
タイトルは「シュピルマン:オリジナルレコーディング」で、
シュピルマン本人による演奏を集めた貴重なCDです。
これを聴いて驚いたのは、このピアニストのもつモダンスティックなセンスです。
ラフマニノフの「前奏曲」やドビュッシーの「映像」を弾く
シュピルマンのピアノ演奏は、とても軽やかで現代的でした。

1曲目は、映画の冒頭でも演奏されているという
ショパン作曲の「夜想曲(ノクターン)第20番嬰ハ短調遺作」です。
シュピルマンと同じポーランド生まれで、
ピアノの詩人と呼ばれるショパンが、とても見事に演奏されています。
シュピルマン自身が作曲した曲も2曲収録されており、
特に「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」には驚きました。
とてもポップで独自のひらめきに溢れています。
アメリカ映画のある時代のサントラに似ています。
この曲が浮き彫りにするシュピルマンは、
ショパンの憂愁を継いだポーランド人というより、
未来的なコスモポリタンなのだと思います。

息子のクリストファー・シュピルマンが言っています。
「音楽によって生きる希望を得、常に音楽と共にあった父。
音楽が父に与えた力は常に我々と共にあることでしょう。」

福井さんの推薦の言葉

「戦場のピアニスト」はいけさんの映画の部屋で詳細を確認できます。


 

演奏家=ヨーヨー・マ

Yo-Yo Ma

豊かな音楽性で聴き手を魅了する天才チェリスト

ヨーヨー・マ;1955年10月7日〜

ヨーヨー・マは、パリ生まれの中国系アメリカ人で現代最高のチェリストです。

モダンタンゴの作曲家アストル・ピアソラの「リベル・タンゴ」を使ったサントリーのCMでの演奏で、一躍有名になりました。

ヨーヨー・マは、10代で高度なテクニックを身に付け、20代ですでに完成の域に達してしまったという無類の天才です。ピュアなクラシックでの活動に加え、ジャズやアフリカ音楽などと共演するフリーなスタンスが話題になっており、その後は、アルゼンチン・タンゴやブルーグラス、庭園設計家、ダンサー、建築家、歌舞伎役者ともコラボレーションするという破格のマルチぶりをみせてくれています。

彼は、1955年に台湾系中国人を両親にパリで生まれました。3歳からピアノを習い、姉の習っているヴァイオリンより「もっと大きな楽器がいい」とチェロを習います。

一度も聴いたことのない曲を演奏する姉に「音が少し違っている」と気を使いながら言う3歳児。その音楽的才能は、早くから突出していたようです。おまけに集中力も並はずれ、好奇心も強かったようです。一度聴くと、それを演奏できてしまう子供だったといいます。4才の頃には本格的にチェロの学習を開始しました。

はじめは父の個人レッスン。父は、毎日2小節ずつ学べば、2日で4小節、3日で6小節と覚え、簡単に曲が弾けるようになるという教育方法をわが子にも当てはめました。

最初の曲はバッハの無伴奏でした。 5歳の頃にはリサイタルを開催。6歳で、バッハの無伴奏チェロ組曲を発表会で弾きました。

1960年代に入り、一家はパリからニューヨークへ移住します。さらに同年、姉と共にバーンスタインらによるワシントンでのガラ・コンサートに出演。同コンサートは“アメリカン・ページェント”という番組で放送され、幼いヨーヨー・マの才能は世間に広く知られることとなりました。

チェロは、ヴァイオリンに比べその技術の進歩が遅れていたようで、クラシックにはチェロの曲自体は多くはありません。そのため、最近のヨーヨー・マは、バッハの無伴奏を様々な分野の人とコラボレートしたり、シルクロード・プロジェクトなど、クラシック音楽家の枠を越えての活動も盛んに行なっています。

バッハも天才ですが、それを弾きこなすヨーヨー・マも天才です!

豊かな音楽性と様々なジャンルに挑戦する意欲、聴き手の心に語りかけるような演奏は、関心するばかりです。彼の素晴らしさは、音楽性だけでなく、とどまっていないチャレンジ精神だと思います。バッハからピアソラ、映画音楽まで素晴らしい音で弾きこなす彼の音楽は、まさに革命・・。「クラシック」を堅苦しく考えず聴いて欲しいものです。

福井さんの推薦の言葉


 

ギタリスト=山下 和仁

言わずとしれた、まさに世界最高のクラシック・ギタリスト

山下和仁:1961年3月25日〜
今や完全に日本を代表するクラシック・ギタリストとなった山下和仁は、1961年3月25日に長崎市で生まれた。幼い頃から自然とギターに馴染んでおり、1976年には、早くも日本ギター連盟主催の第19回ギター・コンクールで優勝することとなる。翌1977年には海外に進出し、スペインのラミレス・コンクール、イタリアのアレッサンドリア国際コンクール、最も権威のあったフランスのパリ国際コンクールといった世界三主要ギター・コンクールで立て続けに最年少一位となり、一躍脚光を浴びる存在となった。代表作としてはムソルグスキーの「展覧会の絵」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ドヴォルザークの「新世界より」、バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」「無伴奏チェロ組曲」「リュート組曲」などがある。全曲を完成したバッハの連続録音などはとくに名高く、特殊な技法も併せて前人未踏の域を示した。

ギターは小さなオーケストラだとベートーベンは言いましたが、今、日本のクラシック音楽界で若い才能の台頭が最も著しいのは、ギターでしょう。若手ギタリストたちが次々と目覚ましい活躍を繰り広げています。しかし、彼らの先駆けであり、パイオニアは、なんと言っても、山下和仁です。ヨーロッパの3大ギター・コンクールにおいて史上最年少で第1位となり、“神童"として大きな注目を集めました。優れた芸術の技術を持つ人、つまり名手のことをヴィルトゥオーゾと言いますが、山下は、今や世界的なヴィルトゥオーゾとして国際的な活躍を続けています。長崎在住ということもあって、東京での演奏機会がそれほど多くないのが東京の音楽ファンにとっては残念なのですが、1999年から2000年にかけて東京で開かれた3回にわたるリサイタル・シリーズでは、ますますの音楽的な深まりを示し、「世界のヤマシタ」の進化を実感させてくれました。

山下和仁の演奏のベスト盤として、まず最初に、文句無くムソルグスキー「展覧会の絵」を挙げることができます。クラシックにおける編曲の理想型と言っても過言ではない内容は、編曲物に対する偏見を取り除くに十分なものです。発表当時は山下にしか実演できないと言われていた編曲ですが、クラシック・ギター界の技術向上が進んだ現在、他にも取り上げるギタリストが出てきて欲しいものです。

また、バッハを忘れるわけにはいきません。まだ一曲を通した編曲演奏が珍しかった頃から、我々の前に完全な姿で音楽を提示してくれた山下のバッハは、音楽的に妥協のないテンポと鮮やかな音色変化に特徴があります。山下にとってバッハは最重要な作曲家の一人であり、彼は今までにこの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」のほか、「無伴奏チェロ組曲」や「リュート作品集」などを自らギター用に編曲し、録音しています。なかでも「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」は、山下が最初に取り組んだバッハです。

山下和仁自身の編曲した「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」は、バッハの原曲をそのまま生かしながらも、ギターの魅力を十分に引き出しています。もちろん、それは山下の演奏と一体となっているものであり、たとえば、ギターだからこそできる和音の様々な鳴らし方やギターらしい音色の変化、あるいは、ヴァイオリンでは不可能と思えるような速いテンポで細かいパッセージを一気に弾き切るところ(ソナタ第3番の第4楽章など)を聴くと、一瞬、この曲がギターのために書かれたオリジナル作品ではないかと思ってしまいます。山下和仁というと超人的なテクニックがイメージされますが、彼の本当の魅力は、ものすごい集中力のなかから生み出されるまさに音楽と一体となった演奏にあり、楽器の存在をも忘れさせる心からの曲にあるのです。ギター界に限ることなく現代最高の音楽家の一人に数えられる山下和仁は、前人未踏のバッハを聴かせてくれます。

そして、そのバッハの影響を色濃く受けたビートルズを、山下はギターで見事に再現しています。ビートルズをギター1本で弾いた2枚組アルバム「ビートルズ集」が出ています。20世紀最高の作曲家とも絶賛されたあのレナード・バーンスタインは、「ビートルズ・サウンドはバッハのフーガに匹敵する美しさをもっている」と言いましたが、その20世紀のバッハとも言えるビートルズを、山下和仁は、みごとにギターに編曲しています。天才・山下にしか弾けない編曲だと思います。山下和仁は、常に意欲的にチャレンジしている数少ないギタープレイヤーだと思います。

福井さんの推薦の言葉

山下和仁 公式ホームページはこちらから


 

歌手=永遠のマリア・カラス

マリア・カラス;1923年12月2日〜1977年9月16日
本名:マリア・アンナ・セシリア・ソフィア・カロゲロプーロス

1923年12月、ギリシャ系移民の子としてニューヨークで生まれた。
母国ギリシャで音楽を学び、天性の歌声で世界一のソプラノ歌手に上りつめ、歌に、恋に生きる女性として名をはせ、大富豪オナシスとの恋で注目も浴びた。その生涯は波乱万丈であったが、歌うことに対して妥協することのない彼女の歌は今も多くのファンを持ち、映画の中でも印象深いシーンで使用されることが多い。

本日この瞬間よりマリア・カラスは私の中で永遠の天才となりました。
「その壮絶な人生は愛と苦悩と音楽に満ち溢れていた・・・」
私はマリア・カラスのことを知らな過ぎました。
1973年5月の来日の時は、ついぞ彼女は歌わなかったのだそうです。
そして翌、1974年11月11日、2度目の来日を最後に、日本だけではなく世界中の人々の前から彼女は姿を消したのです。
天才、マリア・カラスの最後の一声が極東、日本だったなんて・・・
映画はこの日本での演奏旅行以後の彼女の晩年を脚本家が想像力を駆使して描いたものでした。
映画の中で、20世紀最大の歌姫が歌う世界一有名なオペラ「カルメン」のハバネラ・・・・
彼女の歌声はまさしく神の声以外の何物でもありません。
Callas Forever=永遠のマリア・カラス・・・
この天才と一時期でも同じ時代を生きたことがとても嬉しく感じられた一日でした。

豆太郎の投稿より


 

歌手=ノラ・ジョーンズ 

Norah Jones

アメリカ社会に癒しを与える美貌のヴォーカリスト

(以下、東芝EMIのサイトとCDアルバムから記事を拝借しました)

Norah Jones:ノラ・ジョーンズ】
1979年3月30日ニューヨークシティ生まれ
10代よりプロのシンガーとして活動。名プロデューサー、アリフ・マーディンを迎えたブルーノート・レーベルの第一弾アーティストとして2002年デビュー!
○本年度グラミー賞で、最優秀新人賞を始めとする主要5部門を獲得!まだ聴いたことのないあなた、ぜひ彼女の歌声に癒されてください。アコースティック・サウンドを聴かせる、新世代のナチュラル・ウーマンです。
○ボーナストラック:大ヒット・シングル「ドント・ノー・ホワイ」収録

気だくる薫るスモーキー&ハ二―・ヴォイス。キャロル・キング、ジョニー・ミッチェルの系譜を継ぐ、なごみ系シンガー・ソングライターが迷える都市ニューヨークより登場しました。現在、ニューヨーク市ブルックリンをベースに活動中の期待の大型新人女性歌手ノラ・ジョーンズです。癒しを求めるアメリカが待望する、アコースティックな天才女性ヴォーカリストです。

第45回グラミー賞の発表が2003年2月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われました。主要4部門である「レコード・オブ・ジ・イヤー」「アルバム・オブ・ジ・イヤー」「ソング・オブ・ジ・イヤー」「最優秀新人賞」全てを含む8部門にノミネートされ、その受賞数に注目が集まっていたノラ・ジョーンズですが、ノミネートされた8部門全てを受賞するという快挙を成し遂げました。

主要4部門独占は80年のクリストファー・クロス以来史上2人目。受賞数では99年のサンタナの9部門に次ぎ、83年のマイケル・ジャクソンとならぶ史上2位。1979年、ニューヨークシティ生まれ。母親が持っていた 数多くのLPレコードや、ラジオでオールディーズなどを聴いて育ちました。10代の頃からプロとしてピアノの弾き語りをしており、ソングライティングとアレンジも担当。 ジャズ、ソウル、カントリー、フォークポップをソフトにさりげなくミックスし、ジャンルの壁を取り除いたアルバムを発表しました。

グラミー賞ノミネート8部門を総なめにしたノラ・ジョーンズは、業界内の一部では、ひそかに「中島みゆき状態」とささやかれているとか。ジャズテイスト溢れる歌声が今、世界中から人気を集めています。オールディーズなどを聴いて育ったというその生い立ちから、古き良きアメリカ音楽の伝統を深く感じさせるものに仕上がってます。

ノラ・ジョーンズの歌は、躍動的というより、むしろ静かです。静かですが、身体と心をとても心地よく躍らせます。これが自然な音楽の力というものなのでしょう。大都会ニューヨークから聴こえてきたノラ・ジョーンズの歌。今、人々が欲しているのは、まさにこのような音楽なのではないでしょうか・・・・ 

福井さんの推薦の言葉


 

歌手=美空ひばり

戦後最大の歴史的スーパースター

美空ひばり;1937年5月29日〜1989年6月24日

もはや言うまでもなく、戦後最大の歴史的スーパースターです。彼女の存在は昭和歌謡史にとてつもなく大きな足跡を残したと同時に、激動の時代を生き抜いた日本国民の数少ない心のよりどころでした。その功績はあまりにも大きいと思います。

1949年、敗戦の喧騒のさなか弱冠12歳の天才少女、美空ひばりは「河童ブギウギ」にて登場しました。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を下敷きとした、このデビュー曲は残念ながらヒットに繋がりませんでした。がしかし、同年公開された初主演映画『悲しき口笛』の同名テーマ曲が爆発的ヒットを記録し、一躍スターダムへとのし上がります。以降、ドメスティックな色合いの演歌歌謡楽曲を着実にヒットさせていく一方で、ジャズ/マンボ/ブルース/ロックンロール/ロカビリーなど、いわゆる洋楽テイストを大胆に導入し消化した、秀逸極まりない歌謡ナンバーを数多く世に残していきました。

また、1950年代半ばより、江利チエミ、雪村いづみと共に“三人娘”として活躍。以後、脈々と受け継がれるイメージ戦略先行型三人編成アイドル・チ ームの礎となっていったのは言うまでもないでしょう。1989年永眠。すべての日本国民が悲しみに暮れました。

美空ひばり公式ウェブサイトはこちらから


 

歌手=ジョン・レノン


John Lennon


愛と平和を唱い続け、
世界中に大きな影響を与えたビートルズの天才

  

写真右上は、ビートルズのメンバー

左から、ポール・マッカートニー (Paul McCartney),リンゴ・スター (Ringo Star),ジョージ・ハリソン (George Harrison) ,ジョン・レノン(John Lennon).ビートルズはバッハを基調にしており、その曲には不思議な美しさがある。

20世紀最高の作曲家と絶賛されるレナード・バーンスタインは、「ビートルズ・サウンドはバッハのフーガに匹敵する美しさをもっている」と評した。

ジョン・レノン;1940年10月9日〜1980年12月8日
ジョン・レノンは1940年10月9日英国リバプールに生まれた。57年クオリー・メン結成、ポール・マッカートニーと出会う。60年クオリー・メンをシルバー・ビートルズに改名、更にザ・ビートルズに改名。66年オノ・ヨーコに出会う。68年先妻シンシアと離婚。69年オノ・ヨーコと結婚。70年ビートルズ解散。75年に息子ショーンの育児のため音楽活動を休止して主夫(househusband)になる。5年間の活動休止後の新盤『Starting Over』を発売直後、1980年12月8日熱狂的なファンによりニューヨークの自宅マンション前でピストルで射殺される。

ビートルズ(Beatles)に2人の天才がいた。1人は、ポール・マッカートニー(PaulMcCartney)、もう1人は、ジョン・レノン(John Lennon)。この2人の天才は、互いに競いながら、名曲を連発していった。ジョン・レノンは、言わずとしれたビートルズのリーダー的メンバー。

1962年にビートルズとしてデビューし1970年に解散するまでに、ポール・マッカートニーとともに、ビートルズのほとんどの曲の作詞作曲を行い、多数のヒット曲を生み出した。活動初期よりビートルズの精神面を支えていたとされるジョン。メンバー中でもっとも早期に前衛性に目覚め、彼らの音楽を一気にシリアスな方向へ振り向かせたのもジョンである。

ビートルズ解散後は、ソロ・シンガー、または妻のオノ・ヨーコとともに活躍し、特にヒット曲『イマジン』に象徴されるように平和運動に傾倒し多くの若者に影響を与えた。

ジョンは、1969年のヨーコとの結婚後、自らの名前を"ジョン・ウィンストン・レノン"から、"ジョン・オノ・レノン"に改名し、新しい人間としての歩みをはじめた。

彼は、解散前から、ヨーコや仲間のミュージシャンとともに、"プラスティック・オノ・バンド"という即席グループを結成し、独自の音楽活動に励んでおり、『インスタント・カーマ』、『イマジン』、『真夜中をつっ走れ』(エルトン・ジョンと共演)などのヒット曲を生んだが、1975年にヨーコとの間にようやく授かった息子、ショーンの養育を自ら引き受けるために、"主夫(househusband)"を宣言し、事実上芸能界から引退した。しかし、1980年、ショーンが5歳になったのをきっかけに、再び、音楽界にカムバックし、ヨーコとともに、アルバム『ダブル・ファンタジー』を制作し、そこから、シングル『(ジャスト・ライク)スターティング・オヴァー』が大ヒットした。

しかし、その直後の12月8日、ジョン・レノンは、彼の熱狂的なファンであったといわれる精神異常者、マーク・デイヴィッド・チャップマンにより、ニュー・ヨークの路上で射殺された。

こういう略歴を持つジョン・レノン。ただ者ではない。自分の人生をそのまま歌い、人生観を歌に込めている。そのいくつかをピックアップする。

●Mother
3歳の時に家族を捨てた父、17歳の時に自動車にひかれて死亡した母。
Father,you left me... I  needed you so bad. You didn't need me. I’m just gonna tell you good-bye.
(お父さん、あなたは私を置き去った。ものすごく必要だったのに。あなたには私が必要ではなかった。ただ、さよならと言うよ。)と強がりを歌ったその直後、
Mother, don’t go. Daddy, come home.
(お母さん、行かないで。お父さん、帰ってきて)と絶叫するジョン。
こんな直球を投げつけられると返す言葉が見つからない。

●Strawberry Fields Forever
「ビートルズでいちばん好きな歌は?」と投票すると、「日本ではYesterday、英国ではStrawberry Fields Forever」と聞いたことがある。その歌詞を追ってみると、「一緒に行かないかい、ストロベリーフィールズに行くんだ。リアルなものはない。こだわりもない。ストロベリーフィールズよ永遠に」。この虚無感はどこから来るのか? 次の英語の童謡がその問いに答えてくれそうである。

Row, row, row your boat. Gently down the stream. Merrily, merrily, merrily, merrily. Life is but a dream.
「漕げ漕げボートを、やさしく流れを下って、楽しく楽しく楽しく楽しく、人生は夢にすぎない」
などという、急転直下、人生の深淵を垣間みせる童謡を持つ英国文化。そういう土壌で育ったジョン。虚無的になるのも当然か。

●God
God is a concept by which we measure our pain.「神とは概念だ」から始まるこの歌。それも、the concept ではなく、a conceptだ。ということは、one of the concepts「概念の一つ」つまり「似たような概念は他にもある」ということ。He is a friend.「彼は友だち(の1人にすぎない)」という軽い響きにも似て、自分たちの神が唯一至高の存在だといいたげなキリスト教圏の人々にはショッキングな一節だ。
また、聖書の「はじめにコトバありき」という一節を思い出させる。概念とは記号だ。「神」という記号がニーチェが言うように「死んで」しまい、20世紀には「科学」や「お金」という記号がその地位に取って代わった。これから21世紀に生きる我々は、「科学」「お金」という概念で、ジョンが言うように、「その概念によって自分や他者の痛みを量ること(by which we measure our pain)」ができるのか? 
不条理に受ける痛みがなぜ自分にふりかかるのかを納得させる「手だて」や、他者の痛みを推し量る「まなざし」を私たちは今持っているだろうか? 
ジョン・レノンは、多くの曲を生み出し、愛と平和を唱い続け、世界中に大きな影響を与え、新しい時代をつくっていった。戦争や差別に反対し、音楽という手段で、人類に大きな遺産を残した。
天才である。

さいたま市中央区(旧・与野市)、さいたま新都心の中心施設である「さいたまスーパーアリーナ」内の4・5階に「ジョン・レノン・ミュージアム」がある。

福井さんの推薦の言葉
サイトはこちらから。


 

作曲家=モーツァルト

Wolfgang Amadeus Mozart

音楽の神童

モーツァルト;1756年1月27日〜1791年12月5日
モーツァルトはオーストリアのザルツブルグという小さな町の音楽家の家に生まれた。幼いときからすぐれた音楽の才能を示し、わずか3才でピアノを弾き、メヌエットを覚え、5才になると作曲までして人々を驚かせる。バッハやベートーヴェンとともに西欧的な美の典型のひとつを
なし、近年にいたるまで作品・人物ともに神格化・神話化された。8歳で最初の交響曲を書き、32歳で最後の交響曲「第41番」を書き上げるまで、24年間の作曲活動のほぼ全般にわたって交響曲を書き続けた。

天才性

モーツァルトの天才性は、彼が全く音を自由自在に操ることができたこと、言い換えれば、彼が音楽それ自体であったことに求めることができます。
確かに、モーツァルトは、ああいう時代の作曲家ですから、当時の聴衆を意識したウケるだけの曲も書いていますが、この後に弦楽四重奏に編曲されたK.426の2台のピアノのためのハ短調フーガなどのように、聴衆など眼中になく、ただ、音楽とだけ対峙した時には、ふつう常識では考えられないようなとんでもないことをしでかしているのです。

こうした「モーツァルトの遊び狂い方」という深遠なる命題について何ら意識せず、ただ気持ちよ〜く素敵なモーツァルトを聞き流す人が多いことは全くもって残念なことです。例えば、K.426の2台のピアノのためのハ短調フーガ、フーガの技法としてはバッハには遠く及ばないものの、複調や無調等、当時としては考えられないような前衛的な手法が用いられている恐ろしくなるような曲です。

何も、モーツァルトの曲が前衛的だからいい、と言っているのではありません。こういった前衛的な手法が、先人の模倣ではなく、モーツァルトの耳からのみ、オリジナルとして得られたものだ、ということがスゴイと思うのです。

これに比べれば、ベートーヴェンの晩年の作品など、彼にしてみればスゴイのかもしれませんが、まだまだ下界の凡人の努力の領域で行なわれているにすぎません。その証拠に、ベートーヴェンの後に続いたドイツロマン派のベートーヴェンと似たり寄ったりのゲルマンの音楽家達は、バッハ、モーツァルト以上に作曲技法を発展させることはできませんでした。ともかく、フーガのような時代を超越した作品は、バッハを除けば、モーツァルトにしか書けなかったと思います。

福井さんの推薦の言葉


ある日、金に困ったモーツアルトの妻、コンスタンツェから、
モーツアルトの楽譜を見せられたサリエリは、愕然とする。
それは、オリジナルであるにもかかわらず、
ただ一つの手直しもなかった。

彼の頭の中には、曲が完璧に出来上がっているのだ.....。

音楽の才能においては、決してモーツアルトにかなわない事を
あらためて思い知らされるサリエリ。
これは神の仕業だ。
神があの下劣なオトコに宿って、曲を作らせているのだ。
しかし、なぜ神は、私ではなくあの男を選んだのか....。
そしてなぜ、私に音楽を作る才能ではなく、
彼の曲のすばらしさを理解する能力を与えたのか?
そう、サリエリは他の誰よりも、
モーツアルトの音楽に対するよき理解者だった。
だがそれは、彼にとって苦しみ以外の何ものでもない。
彼は自分の皮肉な運命を怨み、神を憎み、そして捨てた。

映画「アマデウス」より

モーツァルト研究家、久元祐子さんのページはこちらから


 

作曲家=バッハ

Johann Sebastian Bach

偉大なる音楽の父

ヨハン・セバスチャン・バッハ;1685年3月21日〜1750年7月28日
出身地 ドイツ アイゼナッハ
ドイツ・バロック期最大の作曲家。生涯のほとんどを教会音楽家として過ごし、数多くのカンタータ、オラトリオ、オルガン作品などを残したが、ケーテンの宮廷音楽家だった時期もあり、多くの器楽作品も作曲している。そして、後世ベートーヴェンをはじめ、モーツァルト、ショパン、シューマン、ブラームスなど、数えきれないほどの大作曲家たちに大きな影響を与えた。

「深遠で計り知れない謎に包まれている」というようなバッハに関する評価をいろいろなところで見かけますが、まさしくその通りだと、聞き込めば聞き込むほど納得できる言葉だと思います。そして何と言っても頭がいい。他の音楽家と比べても、これ程数学的で正確な音楽は他にないのではないでしょうか。アインシュタインと比べても決して引けを取らない天才だと認識しています。もしバッハが対位法やフーガ形式を生み出していなければ、巷に溢れている現代の音楽はまったく違った方向に向かっていたのではないでしょうか。

バッハは、ドイツのアイゼナッハで何代も続いた音楽の名家に生まれました。バッハは作曲家というよりも、オルガンやクラヴサンの名演奏家として知られていました。65歳でライプチヒで死ぬまで、あらゆる種類の音楽を作曲しました。同じ時代のヘンデルと共に、ヴィヴァルディをはじめとするバロック音楽のさまざまな様式を集成し完成させました。

バロック時代の音楽を集大成した偉大な作曲家だったばかりでなく、モーツァルトやベートーベンをはじめとするその後の作曲家たちに誠に大きな影響を与えました。バッハの音楽は死後、忘れられていましたが、死後百年を待たずしてモーツァルトやベートーベンに再評価されました。ベートーベンは、バッハを小川でなく大河であると表しました。そして、現代の作曲家のほとんどの人達がバッハの音楽の影響を受けています。200年を経た今日においても、広く愛されているのです。今、この時も世界のどこかで彼の音楽が演奏され、誰かが彼の音楽に耳を傾けているのは疑いありません。近年、バロック音楽のファンを増やすにとどまらず、ロックやジャズなど他のジャンルにまでバッハのファンが増えています。

たとえば、リバプールの偉大なミュージシャン「ビートルズ」は、バッハやバロック音楽の影響を色濃く受けており、20世紀のバッハだと形容されています。20世紀最高の作曲家とも絶賛されたあのレナード・バーンスタインは「ビートルズ・サウンドはバッハのフーガに匹敵する美しさをもっている」と言っています。

バッハの音楽は、自然な和音進行にのって流れる優雅な旋律と心地よいリズムがあり、癒しの音楽の原点ともいうべきものです。主な曲に、「主よ人の望みの喜びよ」「トッカータとフーガ」「ブランデンブルク協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「平均律クラヴィーア曲集」「無伴奏ヴァイオリンソナタ」「G線上のアリア 」などがあります。

バッハの音楽は創造性の泉だと思います。聴いていると心が持つ本来の美しく繊細な感覚を取り戻していくように感じます。バッハの曲はテーマのメロディーが次第に積み上がっていくにしたがって、とても美しいハーモニーが生まれ、まるで天使が心を洗いに来てくれたかのような感動を覚えます。

バッハやモーツアルトに代表されるような過去の偉大な作曲家は本当の天才であり、そういう人にしか作れない曲を作ったので、現代の作曲家がいくらこの人たちを真似しても、到底それには及ばないのでしょう。 バッハの音楽については多くの解釈方法があり、現在のところ本当のバッハ演奏を出来る人は恐らくいないでしょう。

バッハは、自分の音楽に対し客観的かつ冷徹に見つめることができました。それゆえ、古今無双の音楽家として永久にその名を残し、すべての音楽家は彼の音楽を聴き、あるいは見ることでバッハをいつの日か「音楽の父」と呼ぶようになったのです。

バッハの音楽における信望は、ブラームスの言葉「バッハを学べ、そこにすべてが見出される」に見事に表されています。

福井さんの推薦の言葉


バッハとモーツアルトの天才性について書かれた面白いサイトがあります。

ご一読下さい。「天才というもの」


 

作曲家=バート・バカラック

Burt Bacharach

20世紀最高のヒットメーカー

バート・バカラック;1928年5月12日〜
数々の名曲を生んだ作曲家。ディオンヌ・ワーウィックとのコンビで多くのヒットを生む。カーペンターズの「遙かなる影」も彼の作品。他に「雨にぬれても」「ジス・ガイ」「小さな願い」などヒット曲は数え上げたらきりがない。

ショッピング・モールを歩いていると、美しいメロディーが軽やかに聴こえてきて、私の胸はその心地よさに躍りました。それは、過ぎ去った日々、よく耳にしたあの懐かしい曲・・・カーペンターズが歌った「遥かなる影(Close To You)」でした。

カーペンターズは1970年代に花開き、絶対的な人気を誇ったリチャード・カーペンターと故カレン・カーペンターの兄妹デュオです。この「遥かなる影」は、1970年に発表されたカーペンターズのセカンドアルバムです。カーペンターズ初の全米ナンバーワン・ソングで、4週連続1位に輝きました。当時、弱冠19歳だったとは思えないほど肩の力を抜いた、カレン・カーペンターの哀愁漂う美しいアルト・ヴォイスと、ソフトでしっとりしたサウンドが印象的でした。

作曲者は、ロック登場以降の半世紀、アメリカのポップスの世界で、作曲家として常にそのトップに立ち続けていたバート・バカラック。彼は、ポップスや映画音楽を中心に活躍しているアメリカの作曲家です。この曲「遥かなる影」は、そのバート・バカラックと作詞者ハル・デイヴィッドの名コンビによって生まれました。

ポップス、すなわちポピュラー音楽とは、ヨーロッパのクラシックでも伝統音楽でもない大衆音楽のことをいい、20世紀の産物です。バート・バカラックは、そのポピュラー音楽史上、最も重要なソングライターのひとりです。彼は、1962年から作詞家ハル・デイヴィッドとコンビを組むようになり、彼らの作品は、ディオンヌ・ワーウィックをはじめ、 多くのアーティストによって発表されました。この曲は、いわゆるバカラック作品のリメイクということになりますが、もともとはディオンヌ・ワーウィックのアルバム用に書かれたもので、ディオンヌをはじめ、数々のアーティストがレコード化しています。

バカラックの曲は、60年代から80年代にヒットしたものも多いのですが、そのアメリカン・スタイルのおしゃれなメロディや、都会風で甘いパンチの効いたバカラック・サウンドが近年、再評価されています。94年、ニューヨークを皮切りに音楽ショー「Back to Bacharach And David」をスタートさせると、ますます音楽ファンやアーティスト達がバカラックの業績を讃えるようになり、世界中でバカラックブームとなりました。

バカラックはニューヨークの出身。ハイスクール時代にジャズに没頭し、大学ではクラシックの音楽理論と作曲を専攻。クラシックの天才作曲家ラヴェルの曲に出会い、ますます音楽の世界に引き入れられていきました。大学卒業後、ドイツの歌姫で大女優のマレーネ・ディートリッヒと出会い、そのツアーの指揮者として世界中を旅したりして、様々な経験を重ねました。57年にハル・デイヴィッドと知り合い、2人のコンビで様々な歌手に楽曲を提供。62年に黒人女性歌手のディオンヌ・ワーウィックと出会ってからは、3人のチームで数々の名曲をヒット・チャートに送り込みました。

さらに、ワーウィック以外に提供した楽曲や、映画音楽にも名曲がずらり。ビートルズの63年のカバーで知られる「ベイビー・イッツ・ユー」、65年の映画『007/カジノ・ロワイヤル』のテーマ曲「カジノ・ロワイヤル」、66年のイギリス映画『アルフィー』の主題歌で、この世のものとは思えないくらい美しい名曲「アルフィー」、70年の映画『明日に向かって撃て』の主題歌で、B.J.トーマスが歌った「雨にぬれても」、上述したカーペンターズのヒット曲「遥かなる影」、クリストファー・クロスが80年に歌った映画『ミスター・アーサー』の主題歌「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」などなど。どの曲も、まさにスタンダード・ナンバーと呼ぶにふさわしいメロディの美しさと、洗練されたアレンジが光っています。

バカラックをはじめとするポップ・ミュージシャンの作った音楽は、現在のロックを基点とするポップスとは一線を画しています。ビートルズが、ピンク・フロイドが、スタイルを変えながらもロックの変化(進化)を辿っていく間、バカラックは地道に自分の音楽を続けていきました。バカラックにとっても、ロックは無縁ではありません。ロック・ミュージシャンがバカラックの曲を歌うことも共演することもあります。

しかし、基本的にグループを組んで演奏する音楽、曲を作ることと演奏することが直結しているロックと、バカラックらのポップスは常に懸隔を保っていました。バカラックは自分の曲を自分で歌うこともありましたが、作曲したものを別の歌い手が歌うというのが基本でした。ロックのように、詞と曲と演奏、それにそれをパフォームすることが一体化して一つの行為であるのとは異なっています。だから、誰が歌っても成り立ったのです。

ロックはその後、柔らかみを出して、次第に音楽業界での主導権を握る位置へと移行しポピュラー音楽全般に使われることになりました。いずれにしても、ロックがもたらしたいい意味での音楽のグローバリゼーションの前段階、近代西洋型ポピュラー音楽の洗練された形が、バカラックにはあるのです。だからこそ、バカラックの音楽が登場して数十年という時を経た現在でも、いまだ色あせずに、彼の歌は歌い継がれているのです。今、彼の曲は、数多くのアーティストによってカバーされいますし、これからも更にそれは続いていくことでしょう。

ところで、余談ですが、時代を超えても変わらないことがあります。人との出会いです。天才はいます。でも、天才がたった一人でうろうろしていても、それはそれだけで終わってしまいます。何かあって、誰かがいて、その天才がかたちとして引き出されるのです。そうした出会いにあって、誰が、どこで、どう、というエピソードは必ずしも必要ではありません。たまたま、誰かと誰かが会ってしまうこと。それが大切なのです。それは、私たちみんなの周りで起きていることなのです。

バート・バカラックの経歴はこちらから


 

画家=レオナルド・ダ・ヴィンチ

Leonardo Da Vinci

万能の天才

知恵は経験の娘である

レオナルド・ダ・ヴィンチ;1452年4月15日〜1519年5月2日
15世紀後半、ルネサンス真っ只中のイタリアに、ひときわ輝く巨星が出現する。画家、建築家、デザイナー、音楽家、幾何学者、解剖学者、土木技師、発明家・・・・・・。さまざまな肩書きを持ち、だれ知らぬもののない名画を生み出し、時代を先取りした発明の数々で、ルネサンスに最盛期をもたらした万能の巨星。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンスの代表的な画家です。画家であるばかりではなく、彫刻家、科学者、技術者、哲学者でもある「万能の天才」です。その才能は、工学、医学、天文学、流体力学、幾何学、音楽などに及んでいました。

イタリア型天才の代名詞として全世界にその名を知られるレオナルド・ダ・ヴィンチは、まさに生まれついての万能の天才として、この世に生きる人間が必要とする様々なものを集大成させる創造の才をいかんなく発揮しました。芸術家、エンジニアとして、また科学者、著述家として、レオナルド・ダ・ヴィンチは、「人間と世界との関係」をめぐるルネサンス思想を体現した人物でした。その思想の根底にあるのは、ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)の照応という考え方であり、知と技はそうした照応から生まれるものと信じられていました。今日では「インターフェイス」と呼ばれ、当時は「感覚」と呼ばれていた概念についての研究の出発点となるのは、このような考え方や信念だったのです。ヴィンチはどんな頭脳の持ち主だったのか、仮に生きておられれば、頭を解剖してみたいものです。 

ドリアンさんのページでダ・ヴィンチの作品をご覧いただけます。


 

画家=ミケランジェロ・ヴォナローティ

Michelangelo Buonarroti

 

ミケランジェロ・ヴォォナローティ;1475年3月6日〜1564年2月18日

ミケランジェロの言葉
「私は叡知に導かれて、石の中にひそむ芸術作品を取り出しているに過ぎない」

1499年に現在のサン・ピエトロ大聖堂にある「ピエタ」という大理石の像を完成させ、名声をはくした。1501年には市庁からの委嘱で「ダビデ」の大理石像を作り、市庁の門前におかれ、自由を守る象徴とされた。

1508年、法王ユリウス3世からバチカン宮システィナ礼拝堂の天井画を描くことを命ぜられ、4年間の苦労の末に完成させた。又、新法王パウルス3世からも、正面大壁画の製作を依頼され、1535年から6年間もかかって「最後の審判」を描いた。このシスティナ礼拝堂の壁画は、かのゲーテが「イタリア紀行」の中で、「人間がどれほど偉大なことを成し遂げられるか、ミケランジェロの大壁画を見るまでは、だれも分からないだろう」とまで絶賛したものである。

ヨハネ・パウロ二世の言葉
「神は決して目には見えないはずですが、ここに立つとまるで身近に見えるようです」

ルネッサンスの3巨匠を評した例え話
「レオナルドが生まれ変わるとしたら、偉大な科学者になれるだろう。ラファエロは偉大な政治家になれるかもしれない。しかしミケランジェロはやっぱり偉大な芸術家になるだろう。」

作家、塩野七生さんの言葉より
はじめて見る芸術作品の傑作の数々を前にして、私は、感動するよりも何よりも、存在しうるかぎりの神々に誓った。死んでも作品の解説はしない、と。芸術作品とは、仲介者なしでそれと一対一で向い合い、作者が表現しようとしたことを虚心に受けとめるべきものだと感じたのである。

―「読者に」 より

レオナルドやミケランジェロやティツィアーノの作品の前に立ったときは、これらルネサンスの天才たちを解説した研究書などを読む必要はない。ガイドの説明も、聴き流していればよい。それよりも、あなた自身が「年少の天才」にでもなったつもりで、「虚心平気」に彼らと向き合うのです。天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもあるのですよ。

―「第四部 ヴェネツィアで考える」 より

ドリアンさんのページでミケランジェロの作品をご覧いただけます。


 

画家=ラファエロ・サンティ

Raphael,Santi

 

ラファエロ・サンティ;1483年3月28日〜1520年4月6日

ルネサンスの三巨匠
レオナルド・ダ・ヴィンチ〜ミケランジェロ〜ラファエロ〜

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」とミケランジェロの「天地創造」は、ルネサンスを代表する二大名画。2作品はレオナルド得意の心理描写とミケランジェロならではの肉体描写の集大成となっている。この二巨匠の理性と情熱を調和させてルネサンスを完成したラファエロは、大作「アテナイの学堂」に2人の姿を描いている。

「ラ・フォルナリーナ」
ラファエロは繊細な青年であった。
しかし優柔不断で女にだらしがない、と言う一面もある。
逆にダヴィンチは冷徹で、女におぼれることはなかったようだ。
モナリザはマリアの母アンナだといわれている。
まさにダヴィンチの理想女性。
神聖化するダヴィンチの像。
ラファエロのそれとはまるで雰囲気が違うものの、しかしどこかで愁いを帯びる表情だ。
レオナルドは何を思い、このモナリザを描いたのだろう。
芸術家とは感性を一番に問われる職業ゆえにルネサンス時代はダヴィンチのような画家が多かったのだろうか。
ではラファエロが当時としては珍しかったというのか。
ラファエロはルーティという女性と恋をしていた。
遺品の中に残された裸婦の絵が見つかった。
ラファエロは弟子にけしてこの絵を手放すなといっていたという。
周囲にはふたりの仲がばれなかったからなのか。
理由はどうあれ、ラファエロ=サンティオという男には謎が多い。
そして子供時代からの上流階級の物腰と才能を花開かせた父親や画家達。
ペルジーノという画家に弟子入りした後、師匠の技を吸収し、ダヴィンチの技をも吸収して大作家となったわけだが、上質のパトロンのおかげで彼は法王から王族まで、寵愛されることになる。
彼には野心があった。
枢機卿になると言う野心だ。
結婚したら出世は出来ない。
ゆえに、愛し合ったフォルナリーナ(ルーティ)とも分別をわきまえはしたものの、「ラ・フォルナリーナ」だけは手放せないでいた。
ラファエロの唯一描いた裸婦の絵である。
父親の後妻に入った母親はがめつい精神の持ち主で、ラファエロは特にその態度をいやがり、自分は上流階級の娘と結婚すると思うようになる。
枢機卿の娘マリアとの婚約。
しかし、出世をする事への執念を思えば、彼には結婚など出来ない。
そのうちにマリアが先に逝去、ラファエロも他界する。
そんな悲しい過去を帯びた、一枚。

ドリアンさんのページでラファエロの作品をご覧いただけます。


印象派の天才画家=モネ

 私は鳥が歌うように、絵を描きたい

モネ:1840年11月14日〜1926年12月6日

モネは天才です。彼は広重を始めとする東洋の手法と精神を、西洋というフィルターで変換し、そしてそのいずれもを彼自身のものとしたのですから。 おそらく構図から入った彼は、広重を始めとする浮世絵の中から光を読み取りました。もちろん彼に影響を与えたのが浮世絵だけだとは言いません。 しかし浮世絵から得たものですら、これだけ独自に展開できるのなら、他も推して知るべしでしょう。   

水仙シリーズにある、湖底と湖面を同じパースペクティブに置いた絵を見ていると、モネがたんに「光り輝く」ものばかりを光に求めていたわけではない、ということがよく分かります。広重が試みたように、モネもまた絵描きにとっての普遍的な光を追い求めていたのでしょう。 

世界の天才「印象派の巨匠 モネ」   

朝霞の港、オレンジ色の朝日が静かに昇るフランス・ル・アーブル港。水面にきらめく透明感あるオレンジの朝日、影絵のような船人、たゆたう小舟・・・新しい時代「印象派の歴史的幕開けとなった作品「印象・日の出」。「印象」とは作家が感じた印象のままに表現すること。モネの「印象・日の出」は、まさにその先駆的存在。   

クロード・モネ 略歴(1840〜1926)   
24歳の時に初めてサロンに入選、1872年パリの近くのアルジャントゥイユに落ち着きセーヌ川や両岸の風景を書き、印象派の様式を作り上げた。1874年に仲間と展覧会をパリで開くも、あまり評価されず、「印象−日の出」の題名から批評家が嘲り笑って、彼らを印象派と名づけた。その後、長い困窮生活が続き絵が売れ始めたのは、四十歳を過ぎた頃。ようやく経済的な安定を得、家族とともに豊かな自然と魅力的な水辺の風景にめぐまれたジヴェルニーの広い庭を持つ家に移り住む。   

「モネ」は北斎に惹かれ、日本庭園に興味を持っていた。日本から取り寄せた桜・紅葉・牡丹・あやめなどの花々を庭に咲かせた。そして池を作り、睡蓮を育て、太鼓橋を架ける。自分の築いた庭園を何時間も眺めながらも光のうつりかわりを描く・・・

睡蓮  睡蓮の池と日本の橋  睡蓮の連作   

しかし、60歳頃から、徐々に視力が衰え始める。睡蓮の連作を描きはじめたてから約11年目、自然の光を愛した画家には致命傷ともいえる「白内障」という病魔。モネはあきらめなかった。色覚を失う直前の82歳の高齢にもかかわらず、白内障の手術を敢行。そしてなおも86歳の生涯を終わるまで、描きつづけた。「モネ」を駆り立てていたものは・・・。   

才能のある庭師でもあった「モネ」はジヴェルニーの庭をこう呼んでいました。「私の最高傑作」古来芸術の源は偉大なる自然でした。 小さいながらも、時々刻々とその表情を変える「我が家の庭」は思索とひらめきと癒しを与えてくれます。

外川さんの推薦の言葉


 

画家=フィンセント・ファン・ゴッホ


Vincent van Gogh


独得な炎のような色彩表現で現代絵画の大きな源泉となる

ゴッホ;1853年3月30日−1890年7月29日
オランダ南部のフロート・ズンデルトに生まれる。1872年画廊グーピル商会のロンドン支店で働いた後画商や教師、伝道師など仕事をひんぱんに変えるが、26歳になってはじめて、画家を志し、画商を営む弟テオを頼ってパリに出る。ロートレックやシニャックらと交流する。また日本の浮世絵に強く興味をもち、後の創作に大きな影響を与えることになった。1890年死去。享年37歳。

激情の画家として知られるゴッホ。

ゴーギャンと暮らしたアルルの地で、激しい喧嘩のすえ自らの耳を切り取った話はあまりにも有名です。

彼の人生は悲運の連続でありながらも、その作品は力強くも繊細であり、多様な色彩で自由に表現されています。

モネら初期印象派の作風、新印象派の点描技法、さらには日本の浮世絵版画など様々な作風を吸収し確立された彼の作品は、20世紀美術に多大な影響を与えました。

(名言)

確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動せよ。{ゴッホ}

自分の行動に確信が持てれば申し分ないが、たとえ確信がなくても持っているように行動すれば、しだいに確信が生まれてくるものである。

後期印象派の画家として有名なゴッホは生前ほとんど認められませんでしたが、強烈なタッチの絵からは確信を持とうとする強い意志が読み取れます。


 

発明家=トーマス アルバ エジソン

Thomas Alva Edison

現代工学の元祖

トーマス・アルバ・エジソン;1847年2月11日〜1931年10月18日

エジソンは、世界の天才発明家として有名です。でも、アメリカには、エジソンを上回る発明家はいくらでもいます。ところが、エジソンが飛び抜けて尊敬されています。なぜか?エジソンには、ビジネスセンスがあったからです。新しい発明をして、それをどんどん商品化してお金を生み出していく才能が、エジソンにはあったのです。ところが日本の教科書では、『天才発明家』『努力の人』だけで、エジソンのビジネスの話は全部消えてしまってます。

エジソンは学校では全然勉強ができなくて、落ちこぼれでした。電車の中で新聞の売り子を始め、いろんな職業を経験しています。そんな中で彼のビジネスセンスはどんどん磨かれていきました。学校の研究室に閉じこもっていると、ビジネスセンスは磨かれません。エジソンは、特許に関する膨大な裁判を起こしています。発明家は自分が作ったという名誉だけで満足するので、あまりに特許にかかわる裁判は起こさないと思っている人も多いでしょう。特許に関する裁判をあれだけ起こしたことは、エジソンがビジネスを真剣に考えていたという証拠です。

アメリカにはエジソンよりももっと天才的な発明家はたくさんいたのでしょうが、世の中のムーブメントを作ることは出来ませんでした。歴史に名前を残すことはできなかったのです。  

エジソンの経歴はこちらから


 

物理学者=アルバート アインシュタイン

Albert Einstein

相対性理論

過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望を持つ。
大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである
               アルバート・アインシュタイン

アインシュタイン 1879年3月14日〜1955年4月18日 
理論物理学者。「光量子説」「特殊及び一般相対性理論」などの首唱者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。プリンストン高等研究所にあって相対性理論の一般化を研究、また、世界政府を提唱。ノーベル賞受賞。

昔は、四次元とか、タイムマシンとか、光速ロケットなどは、空想の物語で した。この空想とも思える物語を、アインシュタインは「特殊相対性理論」で見事に証明しました。その理論で、時間と空間を「時空」と呼ばれる四次元的な構造として一つに結び付けたのです。アインシュタインの理論によれば、未来へのタイムトラベルは可能といわれています。

アインシュタインの特殊相対性理論からいうと、光速で動く乗物の、つまり光の速さで動く乗物の中では時計はゆっくりと動きます。例えば、20歳の青年が光速で動く乗物に乗り込み、タイムトラベルしたとします。この青年は、ゆっくりとした時間の中で過ごしているので、20年後に無事に帰還したときには、地球上の時間は30年経っていたなんてことになるというのです。こういったことが原理的に起こるとアインシュタインはいっているのです。ただし、光速で動く乗物が出来るのはまだまだ先と思われます。

アインシュタインが特殊相対性理論を思いつくきっかけとなったのは、鏡で自分の顔を見ている時に、このまま光と同じ速さで飛んだらどうなるか、という疑問だったそうです。鏡で自分の顔を見るということは、「自分の顔に反射した光が鏡に当たる」、「鏡から反射してきた自分の顔を目がとらえる」という2段階を経ています。光は、秒速約30万キロメートルで伝わりますが、それでも無限の速さではありません。光が自分の顔と鏡の間を往復するときに、ゼロに近いわずかな時間ではありますが、やはり時間がかかっています。それでは、目の前に鏡をかざして、自分の顔に反射した光が鏡に向かって飛び出すのと同時に、自分も同じ速さで走り出したらどうなるのでしょうか。

顔から反射して鏡に向かっている光は光速で飛んでいます。それを追って自分も光速で走っています。すると、顔から鏡に向かっている光と自分は同じ速度で並んで走っていることになります。鏡を持っているのは自分ですから、鏡も光速で移動しています。それでは光はいつまでも鏡にたどりつけないのではないでしょうか。つまり、鏡には自分の顔は映らないことになりますが、鏡に顔はちゃんと映るのです。アインシュタインの答えは<光の速さは、止まっている人から見ても、動いている人から見ても変わらない>、つまり、光と同じ速さで飛んでいる人から見ても、光は秒速約30万キロメートルで遠ざかっていくのです。

そのかわり、アインシュタインは空間や時間をゆがませることにしました。具体的には、その1「モノは光速に近づくにつれて短くなる」、 その2「モノは光速に近づくにつれて重くなる」、その3「モノは光速に近づくにつれ(他者から見ると)時間の経つのが遅くなる」があります。

アインシュタインは、ドイツのウルムで生まれ、まもなくミュンヘンに移り 住みました。少年期のアインシュタインは、学校の成績は良かったのですが、 学校はきらいだったようで、一人で数学の勉強をしていたといわれます。大学を卒業したアインシュタインはスイス連邦特許局に職を得、仕事のかたわら自分の研究を進めます。そして26歳のときに、それまで「波」であると考えられていた光が、「粒子」であるとした論文を発表します。この「光量子論」で、アインシュタインはのちにノーベル賞を受賞することになります。同じ年、「光速度不変の原理」と「相対性の原理」からなる「特殊相対性理論」を発表、アインシュタインは新進気鋭の物理学者として一躍注目を集めることになります。

1916年、物理原理として完成度を高めた「一般相対性理論」を完成、ここで示された理論からの予測――「光も重力によって曲げられる」は、1919年の皆既日食の観測により見事に証明され、アインシュタインには世界中から「天才」の称号が冠せられたのです。 


 

科学者湯川 秀樹

ノーベル物理学賞
陽子と中性子を結びつける中間子を発見

湯川秀樹;1907年1月23日〜1981年9月8日
京都帝国大学(現・京都大学)の理学部で理論物理学を学び、1935年、27歳のときに、「素粒子の相互作用について」と題した論文で「中間子理論」を発表した。
この理論は、陽子と中性子を結びつけている力は、「中間子」と呼ぶべき粒子によって伝達されているという内容であった。
37年に湯川が予言したものと思われる粒子が宇宙線の中に発見され、中間子論は一挙に有名になった。
47年、宇宙線中に予想どうりの二つの中間子が発見され、湯川はこの業績(中間子の予言)により、49年、ノーベル物理学賞を受賞し、日本ではじめてのノーベル賞受賞者となった。
55年ラッセル・アインシュタイン宣言の共同署名者となるなど、平和運動にも貢献した。

湯川秀樹が中間子を予言する以前、原子はプラス電気を持った原子核と、その回りをとりまいて運動する電子とで構成されているということは明らかになっていました。また原子核の構成要素に陽子があることもわかっていました。そして、陽子と質量がほぼ等しく電気的に中性な中性子も発見されていました。しかし、ここで生じた新たな問題に湯川秀樹は注目しました。それは陽子と中性子とを結合して安定な原子核をつくりあげている力(核力)の本性は何かという問題です。

昭和9年、1934年の秋、湯川の脳裏に一つのアイデアが閃きました。「中間子」仮説が創られた瞬間です。核力をつくる中性子と陽子の間にキャッチボールのように働く新粒子の質量を見積もると、電子の約200倍であることを湯川は求めました。その新粒子が電子と陽子の質量の中間であることから、「中間子」と呼びました。

中間子仮説。それは、それまで知られていなかった素粒子の一つが見出されたということに留まるものではありませんでした。その仮説は、物質に作用する「力」とは何か、「力を及ぼす」とはどういう事なのかという本質的な部分で、人類のそれまでの認識、自然についての前提、そして世界観までをも根底から変革してしまうほどの、思想哲学上の大発見でもありました。
こうして湯川秀樹は昭和24年(1949年)に、中間子論の業績により、日本人で最初のノーベル(物理学)賞を得たのでした。湯川のノーベル賞受賞は、敗戦後の荒廃と混迷のなかで暗い日々を送っていた私たち日本人を勇気づけるビッグニュースとなりました。

湯川は真剣に考えている時は、なにも思いつかなかったそうです。初めての日本人ノーベル賞受賞者に報道陣が質問を浴びせました。「中間子理論はニッポンの畳に座って考えたのですか、それとも洋式の机で考えたのですか」。湯川は一瞬だけ考え、真顔でこう答えました。「どちらでもないです。寝床の中で考えました」。ある時風呂上りに縁側でごろ寝していると、それは突然やってきたそうです。布団に入ってあれこれ考えていると、昼間は思いつかないようなひらめきが生まれてきました。これだ!とひらめいた瞬間、枕元に置いてあるノートに筆を走らせます。突然の明かりに子供達が目を覚まして泣き出しました。妻・スミは湯川の気が散らないように二人の子供を抱いて廊下に出ました。電灯が再び消える頃には、外が明るくなり始めていました。

専門的知識や、研究テーマを深く掘り下げ考え続ける日々の継続のない者が、寝ながら考えても大発見につながることは決してありません。恐ろしいほどの探究心と執念があってのことだろうと思います。「大学2年から3年の初め頃までの私は、完全にシュレディンガーのとりこになっていた。」とのちになって湯川博士は語っています。ノーベル賞を受賞したり、世紀の大発見をするのはどんな人なのだろうかと素朴な疑問をもちます。きっと特別な人、われわれ庶民とはかけ離れた才能をもった人ではと考えがちですが、新聞記事などを見るかぎり、そうでもないように思えます。むしろ長い期間こつこつとある一つのことに向かって努力を続けてこられた結果ではと考えます。

小さい頃の湯川博士は無口で、手当たり次第に本を読み、祖父から漢籍の素読をうけ、箱庭や積み木づくりを楽しんでいたそうです。博士は数学も得意で、小学校3年生の頃に等差級数の和を求める公式とそっくりの計算法を自分で考え出しています。短歌にも造詣(ぞうけい)が深く、中間子論の研究で悩みの日々が続いたとき、「思ひ入りて いねがていする 七月の 夜もすがらに鳴く かはづかな」という短歌を作っています。まさに天才です。

福井さんの推薦の言葉


物理学者、湯川秀樹の天才論

湯川博士が晩年になって出版された本の中に『天才の世界』というのがあります。
これは、古今東西の歴史に残る偉業を成し遂げた人々、
いわゆる天才と言われた人々の
創造性の秘密を解明しようという意図の下に書かれた書物です。
湯川博士は、この本の「はじめに」の中で天才について次のように述べています。
「(天才に)共通するのは、生涯のある時期に、
やや異常な精神状態となったことであろうと思われる。
それは外から見て異常かどうかということでなく、
当人の集中的な努力が異常なまで強烈となり、
それがある時期、持続されたという点が重要なのである」


もうひとつ、湯川博士の天才論をご紹介します。
「・・・・、私たちは天才と呼ばれる人たちを
他の人たちから隔絶した存在と思っていない。(中略)
ほとんどの人が、もともと何かの形で
創造性を発現できる(つまり天才的)可能性を秘めている
と考える」


 

物理学者=アイザック・ニュートン

Issac Newton


物理学における数学的方法は自然設計の模範となる

  

アイザック・ニュートン;1642年12月25日〜1727年3月20日
イングランドのリンカンシャー州で生まれた数学者・物理学者・天文学者である。1661年ケンブリッジ大学に入学した。学部の課程を終了したときペストの大流行で大学が閉鎖され、18ヶ月故郷で過ごす。この時期に彼の研究の基礎が固まったといわれている。1669年同大学数学教授となる。1672年王立協会会員となる。1696年造幣局長を経て1703年王立協会会長に就任した。

幼少期、母親と離れて育ったニュートンは、暗く内省的で猜疑心の強い人格となりました。しかし数学的才能を次第に示し、20代前半で万有引力の法則、微積分法、光と色に関する理論を発見。その後、数学、力学、天文学を一つの体系にまとめた、通称『プリンキピア』によって、アリストテレスからデカルトと人類の築き上げた学問が一変しました。生涯孤独な彼が信じていたのは、「神の造った世界だから、神の声が数学の仕組みの中にあるはずだ」ということでした。

以下、博多の「アジアス九州」が、平成10年4月2日にフランスから1991年ノーベル物理学賞受賞者のドジャンヌ教授を招いて行った講演会からの抜粋です。

「現代のニュートン」福岡にきたる!!
ノーベル物理学賞受賞者による講演会

ドジャンヌ教授は、超電導から液晶、高分子に至る幅広い分野で新たな理論を提唱され、現代のニュートンと賞賛されている物理学の理論家である一方、フランスでは一般市民や若い世代との対話にも熱心な科学者です。当日は、「シャボン」を題材に歴史上の偉大な科学者のエピソードを交えて、現代社会における科学の意義等について講演をいただき、その後、会場を埋めた高校生たちと対話の時間を持っていただきました。

●講演のテーマ

「泡、あぶく、はかなく脆い物体」(Bubbles,foams,and other fragile objects)

●講演の概略
ものとものとの境目である「界面」は、物質の性質を決めるのに非常に大事な役目を持っています。ドジャンヌ教授にはニュートン、ヤング、フランクリンなど歴史上の偉大な物理学者が関心を持ってきた「界面」の問題とその現代的な意義について分かりやすくお話しいただきました。

●イントロ部分のご紹介
皆さん、年をとったこの教授の話を聞きに来て下さって本当にありがとうございます。今日は泡のお話です。こちらに泡の絵があります。これは非常に薄い膜です。水の膜です。非常に薄いんです。この厚さですけれども100万分の1メートル(1,000分の1ミリ)です。1ミクロンです。水でできているんです。しかし、石鹸分も含まれています。つまり、シャボン玉を作るためには石鹸も必要なんですね。これを皆さんに今日はすこしづつお話ししたいと思っています。

ここで最初の疑問が生まれます。「何故、シャボン玉は色がついているんだろうか。」というものです。そして、この答えは非常に有名な人が答えています。アイザック・ニュートンです。皆さん、アイザック・ニュートンのことは聞いたことがあると思います。

ニュートンは、小さい頃イギリスの田舎に住んでいました。その時に、川で小さな水車を作って遊んでいたんですね、そして18歳になって望遠鏡を発明したんです。その望遠鏡で星を見ることができました。そして22歳〜25歳になると、ニュートンが関心を持ったのは機械の分野でした。そして、地球が太陽のまわりをどのように廻るか、軌道に関心を持ったわけです。天体に興味を持つことで数学にも興味を持ちました。

つまり、近代数学の親であるわけです。22歳から25歳の間に数学の親になり、そして近代物理学の父でもあったわけですね。科学の歴史においてひとつの原点であるのがニュートンであるわけです。

アイザック・ニュートンの経歴はこちらから


 

数学者=フォン・ノイマン

John von Neumann

コンピュータの発案者

  

フォン・ノイマン;1903年〜1957年
ハンガリー生まれのアメリカの数学者。量子力学を数学的に基礎づけ、また、ゲームの理論、オートマトンの理論、計算機理論を創始し、コンピュータ工学に重要な貢献を果たした。
子どもの頃から早熟で記憶力や頭の回転が並外れていたらしい。ブタペストのギムナジウム(中高一貫教育校)では数学の才能がはやくも担任に認められ、ブタペスト大学の数学者に個人教授を受けるように薦められ8年間みっちり英才教育を受けた。
1921年ブタペスト大学に入学し数学を専攻した。しかし学部の数学などとっくに卒業していた彼はベルリンに滞在しアインシュタインやシュミットなどの講義を聴き見聞を広めた。
1923年スイス連邦工科大学に入学し化学工学を専攻した。この頃はもう立派な数学者でヘルマン・ワイルの講義の代役を勤めたりした。
1925年化学工学で学位をとり、1926年ブタペスト大学から数学の博士号を授与された。
1926年からゲッティンゲン大学で研究生活をおくった後1927年ベルリン大学の私講師となった。
1930年招かれてプリンストン大学の講師になり、翌年教授になった。1933年プリンストン高等研究所の終身研究者になり、この機会にアメリカに移住、1937年アメリカの市民権をた。
1954年アメリカ原子力委員になった。1957年ワシントンでガンのため亡くなった。

フォン・ノイマンは数学だけでなく、物理学、経済学、気象学、生物学、そしてとりわけコンピュータ科学に偉大な足跡を残すことになった。天才とは何だろうか。
単に頭の回転の速い人ではないだろう。やはり並外れた洞察力や抽象化能力ではないだろうか。フォン・ノイマンはこの点で真の天才というべき人だった。

元々数学者として出発した彼は20代の若い時期に数多くの数学論文を発表して、数学界では名の知れた存在になっていた。特にフォン・ノイマンはヒルベルトとその学派に強い影響を受けていて、集合論、数学基礎論、ヒルベルト空間論、作用素論、エルゴート理論、連続幾何学などの純粋数学の分野で多くの功績を残している。

20世紀の前半、物理学は新しい世界に入りつつあった。1925年にハイゼンベルグの量子力学が誕生したが、シュレディンガーの波動理論との矛盾が残されていた。両方の理論はともに実験結果をうまく説明できたが、量子と波動というおよそ直感的に結びつかない2つの別々の説明がどうして成り立つのか、物理学者を悩ませていた。ノイマンはヒルベルト空間の作用素論を発展させ、ハイゼンベルグの行列力学とシュレディンガーの波動力学はヒルベルト空間において同等と見なせることを証明した。1932年に発刊された「量子力学の数学的基礎」 はその研究の集大成だった。
日本語訳には湯川秀樹博士が序文を書いている。

第二次世界大戦の勃発からノイマンは合衆国政府のコンサルタントのような立場で軍事研究に積極的に参加した。陸軍弾道研究所のアドバイザーや国防委員会のメンバー、原爆プロジェクトの中心だったロスアラモス研究所の顧問、その他多数の戦時プロジェクトに何らかの関係をもっていた。そうした中で、弾道計算や原爆の爆発を制御する流体力学の計算など、高速の計算機の必要性が高く、ノイマンは計算機への興味を増大させていった。

1944年ふとしたきっかけでペンシルバニア大学ムーア校の計算機プロジェクトの存在を知ったノイマンはすぐに見学に行き、以後アドバイザーとして足繁く訪問するようになる。このプロジェクトは陸軍がスポンサーで、 ジョン・モークリーのアイデアをプレスパー・エッカートが技術的中心になって進めていた。1946年真空管を17000本使ったこの計算機はENIACとして世に発表された。

フォン・ノイマンはENIACの次期計画EDVACでは設計段階から参加し、1945年「EDVACに関する報告書第一稿」でははじめてプログラム内蔵方式コンピュータの情報処理を説明した。この報告書は後にエッカート/モークリーとの特許論争に発展するが、計算機ノウハウをビジネスにしようと考えていた彼らと違って、フォン・ノイマンは機械計算の論理化、抽象化という学問的な興味しかなかった。1946年バークス/ゴールドスタインとの連名で「電子計算機の論理設計の予備的討論」 と題された報告書が作られた。この報告書にはコンピュータ設計の基本が明確に論じられており、以後これが教科書のように使われ、今日のコンピュータ設計の基本になっているノイマン型アーキテクチャーとして知られるようになった。

また、フォン・ノイマンは一般にゲームの理論の創設者として知られている。それは1944年に発刊されたモルゲンシュテルンとの共著「ゲームの理論と経済行動」が起点になっている。ゲームの理論は現在では数理経済学、ミクロ経済学の分野で欠くことのできない分析手法となっている。

フォン・ノイマンはこの他に、気象学、生物学などにも業績を残している。54歳での早すぎる死は多くの人々を悲しませたが、彼の一人娘はニクソン政権の経済顧問をやったこともある人で、才能は受け継がれたというべきだろう。

フォン・ノイマンの経歴はこちらから


 

化学者=福井 謙一

世界の化学史上、画期的な発見でノーベル化学賞を受賞

福井謙一;1918年10月4日〜1998年1月9日
奈良県大和郡山市に生まれる。当時日本では関心の薄かった化学に興味を持ち、京
都大学工学部工業化学科に進む。卒業後、陸軍で航空燃料の研究に携わるかたわら
京都大学で講師、助教授を兼任し、48年に博士号を取得。51年からは京都大学工学
部教授に就任。81年、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞。98年、癌性腹膜炎の
ため死去。2003年、京都大学に、福井謙一記念研究センターが設立された。

(業績)

福井は、父の知人の化学者にすすめられたことや、尊敬するファーブルが化学者としてもすぐれた人物であったことに影響され、化学の道を選びました。

工学部工業化学科という化学の応用を目的とする学科の出身でありながら、主に化学の基礎部分の研究を行いました。得意な数学で化学反応を解き明かしたいと考えるようになり、そのために量子力学の研究に取り組みました。量子力学は、原子や分子の中にある電子のエネルギーを数式で表そうとする新しい物理学の分野です。

福井の研究対象は化学反応の機構を解明することでした。そのために、量子力学の理論を応用して電子の軌道を追求することを始め、化学反応の仕組みを解明することに成功しました。この研究にもとづき1952年に独創的な「フロンティア電子理論」を発表しました。

その内容は、簡単に言いますと、物質の構成単位である分子のうち、いちばん外側を回る電子を「フロンティア電子」と名付け、これが化学反応に最も寄与するという独創的な理論です。有機化学の反応論に初めて量子力学を導入、福井自身が「大発明と直感した」というほどのものです。

この理論は、すべての化学反応にあてはまる原理であり、世界の化学史上、画期的な発見として認められ、1981年、日本人としてはじめてのノーベル化学賞を受賞しました。工学部の教授がノーベル賞を受賞するのは珍しいのですが、本人は「数学が好きだったので化学者になった」と言っていました。

福井が発表したこの理論は、有機化学の反応機構の解明に多大な貢献をし、新しい分子合成の分野で実用的にも役立っています。同じ81年にノーベル化学賞を受賞したR.ホフマンの提出した「ウッドワード・ホフマンの法則」も福井の理論をもとに考え出されたものです。

福井は典型的な学者肌ですが、組織的指導力もある人だったようです。夜、寝ながら浮かんだアイデアをメモに書きとめ、実験に反映させてこられたそうです。哲学者で京都大学学長だった梅原猛は、福井謙一を評して「すぐれた自然科学者は科学の限界をよく認識し、科学の未来に警告を発しておられる」と述べました。晩年は分子結合の計算機シミュレーションに力を入れられました。

「福井謙一先生について」の記事はこちらから


 

技術者=嶋 正利

半導体革命の夜明け

島 正利;1943年〜

今日の情報革命の第一幕は、70年代半ばの「半導体革命」でした。微少な電流を単純に増幅するだけのトランジスターが、複雑な機能を発揮できるICとなったのがきっかけで起きました。指先ほどのチップ1つで、0と1の組み合せによる計算が自在にでき、ICによる時計や電卓が登場しました。やがてIC電卓に記憶装置が付き、複雑な計算をこなせるようになりました。

以来20年、半導体の性能は18ヵ月で2倍の割合で向上してきたといわれます。これは半導体のトップ・メーカーであるインテルの創業者の一人、ゴードン・ムーアの唱えた「ムーアの法則」によるものです。これは、半導体は3年で4倍、9年で64倍という猛スピードで進化するというものです。ICがさらに高度化してLSIになり、本格的な計算ができるMPU(マイクロプロセッサ・ユニット)が誕生しす。MPUは、別名CPU(セントラルプロセッサ・ユニット)と呼ばれているパソコンの心臓部です。

世界初のMPUは、日本の天才技術者、嶋正利氏が、「ビジコム」という日本のメーカーで発想し、インテルに移籍して完成させました。「インテル入ってる 」の言葉にあるように今日のパソコンの基礎を作り出したのです。 

島 正利氏の経歴はこちらから


 

技術者=セイモア・クレイ

Seymour Cray

スーパー・コンピュータの生みの親

  

セイモア・クレイ;1925年〜1996年
米国ウイスコンシン州チッペワ・フォールズに生まれる。ミネソタ大学で電気工学を
習得し、1950年、UNIVACコンピュータで有名なスペリー・ランド社の母体であるERA
社に入社。1957年、ウイリアム・ノリス等と共にミネアポリスでCDC社を設立。そこ
でベクトル型コンピュータを開発、後にスーパーコンピュータと呼ばれる分野を作っ
た。1972年、スーパーコンピュータ製造の専門会社クレイ・リサーチ社を設立し、ス
ーパーコンピュー「CRAY-1」を開発。1996年、愛車を運転中に交通事故が元で亡くな
った。クレイ・リサーチ社は、現在のクレイ社の元になる。

2001年10月3日、コンピュータ業界に衝撃が走りました。電子機器メーカの名門、日本電気(NEC)が世界最高速のスーパーコンピュータ「SX-6」を発表し、世界を震撼させました。

スーパーコンピュータというのは、高速演算ができ、主として科学技術計算を目的とするコンピューターをいい、おおざっぱには大型コンピューターの100倍位の処理能力があります。科学技術計算には必須の浮動小数点演算をきわめて高速で反復処理することができます。自動車設計、航空や宇宙、気象および天文学、地球環境測定、原子力、核融合、大規模シミュレーション、バイオテクノロジー、高エネルギー物理学などの大規模科学技術計算の分野で活躍しています。

日本電気が発表した「SX-6」は、その時点で、最大で8T-Flops(8テラ・フロップス)の演算処理機能をもつスーパーコンピュータで,世界最高レベルの高速処理を実現しているものです。T(テラ)は「兆」を表す数字の単位であり、Flops(フロップス)とは浮動小数点を含む計算を1秒間で何回こなせるかを示す単位です。したがって、8T-Flopsとは1秒間に8兆回もの計算を実行する能力があることを意味しています。浮動小数点を含む計算は、パソコンや金融機関などで使う大型コンピュータのような汎用(はんよう)マシンにはあまり重要な指標ではありませんでした(最近は変わりつつありますが)。しかし、スーパーコンピュータにとってはとても重要な指標であり、これが命です。

日本電気が「SX-6」で世界をさらに驚かせたことは、その演算方式が1970年代にセイモア・クレイという、アメリカのコンピュータ開発技術者が独力で生み出した手法であったことです。これもコンピューター業界では「スプートニク以上の衝撃」だったそうです。その演算方式は、「ベクトル型」というものです。

私たちが普段使っているコンピュータは「スカラー型」といって、一つの命令を送り終わるまで次の命令が送れないものです。基本的には同時に複数の計算は出来ません。これに対して、「ベクトル型」というのは、多数のパイプライン(命令実行回路)で、複数の演算をハードウェア的に同時に行なうものいい、いくつもの命令を並列的に実行することができる方式です。大規模な数値計算を高速かつ大量に行うことができ、科学技術計算で特に時間がかかる配列データ構造の演算に向いています。

クレイが、最初のスーパーコンピュータを手がけたのは1960年。ミネアポリスのCDC(Control Data Corporation)という会社で、35歳の時です。クレイの開発したスーパーコンピュータはCDC1604という名称で、世界で初めてトランジスタを採用していました。このマシンは当時世界最速のマシンでした。このCDC1号機はカリフォルニアの海軍大学院に納入されました。
CDC1604はやがて世に認められ、クレイの名声を不動のものにしました。

セイモア・クレイは「スーパーコンピュータの父」と呼ばれ、世界最速の計算機を追い続けたアメリカの電子技術者です。現在のスーパーコンピュータの原型は、事実上たった一人のこの天才によって生み出されたと言ってもよいのです。クレイの立派なところは、自ら設計した設計図をもとに、ハンダゴテを使って自ら製作を手がけたことでした。クレイは構成部品に触り、組み上げ、テストし、理解することが好きでした。これがまさにセイモア・クレイの流儀でした。上司は彼の自信と細部への注意力、そして知識の広さに注目しました。

彼はほとんど毎日、夕食時に工場である倉庫を離れ、ブルックリン・センターにある湖畔の自宅に愛車で戻りました。10時半頃まで家族とともに過ごし、それから車で倉庫に戻って夜遅くまで論理回路についての仕事を続けました。そこには彼が大事にした静寂がありました。ついにクレイは、従来のコンピュータ回路のどれにでも使える基本回路を思い付いたのです。

クレイは、仕事に全生活をかけ、生まれ故郷、ウィスコンシン北部チッペワ・フォールズでCray Reserch(クレイ・リサーチ社)を設立します。科学技術計算処理にのみ特化し、シミュレーション計算、国防に威力を発揮したスーパーコンピューターを専門とする会社です。クレイ・リサーチ社は東西冷戦構造下で急成長を遂げます。
 
1996年日曜日の午後、地元の店でソフトウェアを買って帰る途中、クレイの乗る車は別の車に衝突されました。車は三回転し、国道の真ん中でやっと停止しました。首を骨折し、頭に重度の外傷を受けたクレイは二度と意識を戻すことはありませんでした。享年71歳でした。
 
スーパーコンピュータの開発は、この一人の天才が自らの信念にのっとり、生活のすべてを賭けて死ぬ直前まで、前へ前へと突き進みました。生涯、ひたすら速く走るコンピュータのアーキテクチャ(設計理念)の構築とその実現に向けて、静かに深く燃えました。
 
クレイ亡き後、クレイリサーチ社は1996年にSGI(シリコングラフィックス社)に吸収合併され、その後、2000年にTera(テラ・コンピューター社)がクレイ部門を買収して、社名をCray(クレイ社)に変更しました。

日本では、1970年代後半頃から富士通、日立製作所、日本電気の、いわゆるメインフレームコンピュータメーカ御三家がベクトル型スーパーコンピュータの開発を始めました。しかし、やがて富士通と日立製作所はこの分野から撤退し、日本電気のみが継続して開発を行なうようになりました。そして、2001年2月28日、日本電気はクレイ社と提携し、日本電気が開発・製造するスーパーコンピュータをクレイ社にOEM(相手先ブランドでの生産)により供給し、クレイ社が同社のスーパーコンピュータ製品ラインの一機種として米国、カナダ、メキシコに独占的に販売することになりました。これにより、かつては日米貿易摩擦を引き起こすまでの熾烈な競争をしていたライバルは協調路線を歩くことになりました。

そのクレイ社は、日本電気から供給されるものとは別に、2002年11月14日、自社開発によるスーパーコンピューター「Cray X1システム」を発表しました。Cray X1は、米国での価格は約3億円前後で、最大で毎秒52.4T-Flops(52兆4000億回)のピーク演算処理機能をもつ驚くべきスーパーコンピュータです。また同社は、2010年までに事実上の実効性能P-Flops(ペタ・フロップス=毎秒1000兆回)の演算速度の実現に挑戦する計画を発表しました。これは、クリティカルな次世代アプリケーション(適用業務)に対応するためのものといいます。

身近なところでは、セイモア・クレイが考え出した「ベクトル型」の設計思想は、現在では、Windows用PCのCPUであるインテル社のPentium4や、MacintoshのCPUであるアップル・コンピュータ社のPowerPC-G4が搭載しているベクトル演算器に反映されています。

天才セイモア・クレイは、スーパーコンピュータだけでなく、現在の全てのコンピュータの中に今でも生き続けているのです。名言「コンピュータの設計は芸術である」--これはクレイの美学です。
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写真右上は、クレイ社の最新型スーパーコンピュータ「Cray X1システム」です。

(参考)k(キロ)=「千」、M(メガ)=千の1000倍「百万」、G(ギガ)=百万の
1000倍「十億」、T(テラ)=十億の1000倍「兆」、P(ペタ)=兆の1000倍「千兆」

セイモア・クレイの経歴はこちらから


 

技術者=カール・ベンツ

Karl Benz

 
カール・ベンツ;1844年〜1929年
1886年1月29日、ベルリンの帝国特許局は、カール・ベンツに対して1通の特許登録証を発行しました。それは世界で最初の自動車「ガソリン・エンジンを動力とする車両」に関する特許でした。時を同じくして、ゴットリープ・ダイムラーも独自のアイデアを具現化し、ガソリン・エンジンを搭載した自動車の開発に成功しました。この2つの発明が、自動車の誕生そのものでした。この画期的な発明は、それまでの蒸気機関と馬に頼っていたそれまでのモビリティに革命をもたらしました。その後、ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社とベンツ&カンパニー社は自動車開発で互いに刺激しあい、技術革新のスピードは一気に加速していったのです。

いや、
「発明する」ことのほうが、
「発明した」ことより
ずっとおもしろい。

 

カール・ベンツの名言は「世界の名言」でご覧いただけます。


 

技術者高柳 健次郎

テレビの生みの親

日本ビクターが世界に先駆けてテレビ画面に「イロハのイ」を画いた50年前。今日の世界の人々にとって最大の娯楽はテレビ放送でしょう。高柳博士が今日のテレビ放送の礎を築いた天才です。

高柳 健次郎;1899年1月20日〜1990年7月23日
日本ビクター(株)の元副社長、技術最高顧問などを歴任した故高柳健次郎は、大正15年(1926年)12月、世界で初めてブラウン管による電子式受像に成功し、「テレビの父」として歴史にその名を残しました。以来日本におけるテレビ放送の実用化に大きく貢献したほか、戦後日本ビクター(株)入社後は技術部門の指導者としてカラーテレビの技術革新、ステレオやVTRの開発等、数多くの業績を残したはもとより、企業の枠を超えた日本の電子産業の発展と、それを担うべき人材の育成に尽力しました。

 

(評価)

「10年20年先を考えて研究に取り組むこと」・・・高柳健次郎は東京高等工業学校電気科(現東京工業大学)を卒業するとき、恩師からそう言葉をかけられた。

日本の通信技術において、無線やラジオを通じて音声を送ることが限界だった当時、高柳は音声を電波で送れるのなら映像を送ることも実現可能だと考え、電子式テレビ開発への夢を抱く。

高柳は郷里の浜松高等工業学校へ助教授として赴任した際、校長に「東京の歌舞伎座を浜松で見られるようにしたい」とテレビづくりへの情熱を語った。周囲の反対のなか、校長だけがその情熱を認め、高柳の研究は始まった。わずかな研究費しかない高柳の実験は、廃材を利用した手作りの装置を使い、学校の倉庫の中で昼夜を問わず続けられた。数々の試行錯誤を経て、ついに1926年、高柳は世界初のテレビ用ブラウン管による映像受信に成功する。暗箱のブラウン管に「イ」の文字が浮かび上がった瞬間である。

テレビの原理は、画像を電気で送り、再現させるというもの。当初のテレビは撮像部分、受像部分ともモーターで円盤を回転させる機械式だったが、高柳が目指したのは電子式テレビだった。しかし、当時の工業水準では性能の良い撮像部分を作ることができず、始めて高柳が作ったテレビは、受像部分だけが電子式の半電子式テレビであった。撮像、受像とも電子ビームを使用する全電子式テレビが完成したのは、それから9年後の1935年。アイコノスコープと呼ばれる特殊な真空管の開発に成功し、高柳の夢は現実となった。

高柳は、その後もVHSビデオの開発やNHK中継車など、さまざまな電子技術の分野に貢献し、高柳の出身校である浜松高等工業学校からは、門下生らが光電子管のパイオニア、浜松ホトニクスを設立した。現在、浜松ホトニクスは光電子倍増管で世界の80%のシェアを占める。

(Mさんのコメント)
高柳健次郎 もちろんテレビの生みの親。日本ビクターが世界に先駆けてテレビ画面に「イロハのイ」を画いた50年前。今日の世界の人々にとって最大の娯楽はテレビ放送でしょう。高柳博士が今日のテレビ放送の礎を築いた天才です。

(高柳の研究開発指導方針)
1)先見性: 10年先・20年先の求められるテーマを見定める先見性を持て。
2)ひたむきに: 目標を定めたら、亀のように粘り強く、休むことなくひたむきに努力せよ。
3)集団討議 : 一人の天才によって科学技が進歩する時代は終わった。集団討議によるステップ・バイ・ステップの研究にこそ大きな成果が期待できる。
4)皆で一緒に向上: 研究成果は個人のレベルに止めず知らせ合い、皆で一緒に向上しよう。
5)専門外にも取組め: 自分の課題に関わることは専門外のことであっても自分で取り組んでみる姿勢を持て。複合化の時代には関連分野についての知識が大切になり、自分の専門分野の研究を進めるためにも有効だ。
6)創意・自主性尊重: 個人の創意や自主性を大切にせよ。研究に立場の上下はない。若い研究者の自発的な意思で研究を進めた方が、必ず大きい成果を得られる。

写真は、1989年、勲一等瑞宝章を受章したときのもの

日本ビクターのWebサイト 高柳健次郎の紹介


 

スペインの天才的建築家=アントニ・ガウディ

Antoni Gaudi

人を驚かす不思議な建築物を生み出した

 

アントニ・ガウディ;1852年〜1926年

壮大なる地球の歴史が生んだ大自然と、そして人類の叡知が刻み込まれた建造物を、未来へと引き継ぐ「世界遺産」。アクロポリス神殿、アンコールワット、あるいは、法隆寺など数々の歴史建造物と肩を並べて、主要な作品3つもが「世界遺産」にされている一人の天才建築家がいます。その名は、アントニ・ガウディ。   

バルセロナ南西の商業都市レウスに銅板機具職の子として生まれたアントニ・ガウディ(1852-1926)は、16歳の時、バルセロナ県立建築専門学校予科に入学しました。当時、バルセロナは繊維などの新興産業によって大きく発展している最中でした。同時に多くのアナーキスト達が、スペインからの独立運動を繰り広げていました。アルバイトをしながら苦労して学校を卒業したガウディは、内装や装飾の仕事を手掛け始めます。 そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会います。   

パリ万国博に出品された手袋店のショーケースを見てガウディの才能を見て取ったグエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛けます。グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、ガウディの建築にはいくつもグエルの名前が冠してあります。   

(以下、Sさんのコメント)   

世界の天才「アントニ・ガウディ」   

スペイン・カタロニア地方港町バルセロナを舞台に活躍したアントニ・ガウディ(1852-1926)   
天空に向かって尚螺旋を巻き続けるサグラダファミリア大聖堂。未完にてその意思を引き継ぎ完成まで100〜200年を要すると言われている。彼の目指す大聖堂とは・・・・・。聖母マリアの子宮のように人々を包むコロニア・グリル。カサ・バトリョの屋根ををかたどるカタロニアの伝説のドラゴン・・・。中央に不思議な花を咲かせた骨の形の窓枠。ガウディの愛してやまなかった地中海を見事なまでに表現している。不思議なガウディの建築。リズミカルやスピード感、軽快感を呼ぶ機械的な動きでなくてうごめく、膨らむ、しわが寄る、波打つ、うねるといった生物や大自然の営みに現れる動き。洞窟に身を寄せていた太古の人間。共に暮らす小動物たち。ガウディの建築はふるい記憶を呼び覚ます。   
大自然の地勢。動物の肉体。成長しつづける樹木。時と共に変化して行く三つの生命を建築に表現したガウディ。いまだ観ることが叶わないスペイン、バルセロナ。かの地に立ちガウディの建築の懐に包まれ想像の樹木になり、地中海よりの風に吹かれてみたいと思い続けている。   

(以下、Mさんのコメント)   

グエル公園のワレタイルやワニ、グエル邸の鉄門扉、カーサミラとかの渦巻状の階段・天井、未完で成長し続けるサグラダファミリア(待ち受けにしてます)どれもこれも、魂を揺さぶられます。   

(以下、Fさんのコメント)   

アントニ・ガウディとは、すごい天才に目を付けましたね。手元の世界遺産の本を見ると、「グエル邸」「グエル公園」「カサ・ミラ」がユネスコの世界遺産に登録されています。比較的新しい建築物なのに世界遺産に登録されるとは・・・ガウディーがスペインの天才的建築家であったことの現れでしょう。


バルセロナの空に向かってどこまでも伸びてゆこうとする教会建築、サグラダ・ファミリア・・・
今から100年前、ガウディが建設にあたっていたこの教会は、彼の死後70数年も経った今もいまだ完成されることなく、今もなお、その工事は延々と続けられているのである。
ガウディの代名詞とも言うべき代表作でありながら、まだ未完の建造物であるがゆえに、サグラダ・ファミリアは世界遺産の指定からも外れている。
そして天に向かって伸びゆく塔の、その全てが出来上がるのは果たして100年先か200年先か・・・誰にも分からないとさえ言われているのである。

人間は創造しない、発見する。独創とは起源に帰ることである。
私は創造者ではありません。
コピーをしているのです。自然からコピーを取っているのです。

貧乏と貧困を混同しない方がいい。
貧乏は優雅さと美に通じているが、貧困は飢えと恨みに通じている。
富は贅沢と面倒を生み出す。
貧乏は人を気高くする。


晩年のある日、一人の記者がガウディに訊ねました。
「あなたは素晴らしいオリジナルの物を作り出しますが、そのオリジナリティの先生は一体誰ですか?」
ガウディーは外を指差して言いました。
「あそこに私の先生がいます」
そこにあったのは一本の枯れかかった木でした。
私が心を開いて、努めて読むのに適切な偉大な書物は・・・自然である。
                               <アントニオ・ガウディ>

豆太郎 2002年3月5日

日本古来からの伝統と自然との融合、、、古き良きものを今日に受け継いでいきながら、自分の中からイメージするものとを調和させる。だから私も日々 自分の感覚は澄んでいたいと思ってます。以前山下さんが、ガウディの話をしていましたが、自然を捉える感覚が似ていたので感動しました。

2002年4月9日
Love & Peace,
夢koto塚田


 

文学者=三島 由紀夫

戦後文学の代表的作家

三島 由紀夫;1925年1月14日〜1970年11月25日
世界中に著作が翻訳されている戦後文学の代表的作家。学習院時代、16歳で「文芸文化」に「花ざかりの森」を発表するなど、早熟な才能を著わし、東大在学中には文壇に入った。1949年「仮面の告白」で注目を集め、「禁色」「金閣寺」「サド侯爵夫人」など華麗で絢爛たる三島文学を築いた。「楯の会」を組織するなど軍国主義的な行動も示し、70年「豊穣の海」を書き上げたその日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地に赴き決起を訴えた後、割腹自殺。

---小説「仮面の告白」について---

三島由紀夫と聞いて、たいていの人は割腹、自衛隊、右翼などを思い浮かべるのではないでしょうか。三島由紀夫に対するそういう誤解が、この作家を正当に評価することを妨げていると思います。

私は、三島の政治思想にはほとんど興味がありません。三島の審美眼に天性の優れた感覚を感じるのです。彼が傾倒していたラディゲ同様、彼が天才であったこと、それも非常に早熟な天才であったことは確かです。そして、視線が美学的な色彩を帯びた時、その天性の才能はいっそう輝きを見せます。

幼い頃から感受性の鋭かった三島は、学習院中等科で文才を花開かせ、天才少年の名をほしいままにします。10代で処女作を出版。エリート官僚の家に生まれた三島は、東大法学部を経て大蔵省に入省しますが、執筆に専念すべくわずか9ヶ月で辞職し、小説「仮面の告白」の執筆に取りかかります。

三島は少年の日から、20歳で没したフランスの天才作家ラディゲ(Radiguet)を最も愛読しており、小説を書く上でもこの夭折(ようせつ)の作家をいちばんの目標としていました。「仮面の告白」は、ラディゲが16歳のときに書いた「肉体の悪魔」(原題は「魔に憑かれて」)に影響された最初の著作かもしれません。

この「仮面の告白」は、三島が自分の青春時代をモチーフとした自伝的小説です。三島は、この小説により一躍脚光を浴びました。旧来の私小説の手法とは異なり、告白を仮面を通して行いつつ、そのときの光景をみずから見ていたという誕生以来の生の奇跡をたどったこの作について、三島は「最初の(小説)」と述べていますが、これを書いたことによって、24歳の作者の裡に生まれたのは、退屈な日常生活の開始としてただ厭われた戦後の時代にも「何としてでも、生きなければならぬ」という思いでした。

「仮面の告白」は、戦後文学の代表的名作です。新潮文庫「仮面の告白」の解説で、福田恆存は、三島がこの作品に「自己の芸術家のゐるべき揺ぎなき岩盤を発見した」と述べ、「三島由紀夫の書いた作品のうちで最高の位置に位するものであるばかりでなく、戦後文学としても、のちのちに残る最上の収穫」と激賞しました。

三島由紀夫が現代の日本の作家に与えた影響は絶大で、多くの作家が三島由紀夫からの恩恵を受けています。「仮面の告白」は、三島由紀夫の描写でもあるかもしれませんが、ノンフイクションとフイクションが融合した小説でもあるのです。エロチシズムがテーマの作品ではありますが、実に人間的な作品でもあります。

世界で最も有名な日本の作家は、川端康成でも大江健三郎でもなく、また夏目漱石でも森鴎外でもなく、三島由紀夫ではないかと思われます。また、この本の文章は素晴らしいです。全てが詩的な文章で綴られています。こんな綺麗な文は普通の人では、まず書けないと思います。主人公の内面的変化の様子がとても鮮明に描かれていて、その一つ一つの詩的な表現を心ゆくまで堪能することができます。

三島由紀夫は若くしてデビューした天才であり、かつ、その作品はとてつもなく詩的な美文なので、無頼の文学青年と思えますが、猪瀬直樹の「ペルソナ 三島由紀夫伝」を読むと、一家は官僚の血筋で、秀才的な緻密な努力をする人だったようです。

三島は文章を美的に表現する達人であると共に、非常に理性的な人でもありました。直感的で詩的な表現と、理詰めに概念を分析していく執拗さが、不思議なバランスを保っています。右脳も左脳も輝いていたのだと思います。空想の赴くままにきらびやかな言葉で文章を組み立てているのかと思っていますと、表現されているものの論理の整合性はきちんと表されています。

総合すると、三島由紀夫はバランスの天才と言えます。おそらく彼は、出発地点で最終章までの全イメージとバランスのとれた構成とが脳内にあったように思えます。あとは、それを得意の美文で記述すれば、あの素晴らしい作品の完成をみるのだと思います。


 

文学者=ウイリアム・シェークスピア

William Shakespeare

   世界演劇史上最大の劇作家

ウイリアム・シェークスピア:1564年4月23日〜1616年4月23日
ウイリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)は、イギリスの劇作家、詩人。
世界演劇史上最大の劇作家といわれ、全世界を通じて作品が上演され、作品に現れた
人物のキャラクターはそのままヨーロッパ近世の典型的な人物の精神史を形作ってる。1564年4月23日にイギリスのストラトフォードという町で、皮革商ジョン=メアリー・シェイクスピア夫妻の長男として生まれ、ホーリー・トリニティ教会で洗礼を受ける。脚本として全37作品があり、大きく分類すると歴史劇、喜劇、悲劇に分かれる。
四大悲劇と称されるのは「マクベス」(Macbeth)、「ハムレット」(Hamlet)、「リア王」(King Lear)、「オセロ」(Othello)。これらの作品ができた頃、イギリスの繁栄を担ってきたエリザベス一世が死去(1603年)している。詩としては1609年の「ソネット集」が有名。

 

『ロミオとジュリエット』の大成功で、再びロンドン演劇界きっての花形作家となったウイリアム・シェークスピアは、次々と話題作を生み出していった。『リチャ−ド二世』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』。そして1601年『ハムレット』が完成。

「生きるか、死ぬか、それが問題だ」、「凶暴な運命の石と矢を耐え忍ぶのが尊いのか、 それとも苦難の荒海と戦う方が・・・」。「消えろ、消えろ、つかのまの燈火!人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。」−『マクベス』

世界も変わり始めていた。1603年、一つの時代が幕を閉じる。ヴァ−ジン・クイ−ン、エリザベス一世死去。イギリスを支え続けた大きな柱が倒れた。

「この地上に在る一切のものは、結局は溶け去って、いま消え失せた幻影と同様にあとには一片の浮雲も残しはしない。我々人間は、夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。・・・・」 1611年、最後の作品、『テンペスト』
1616年4月23日、奇しくも生まれた日と同じ今日、ウイリアム・シェークスピアはこの世を去った。享年52歳。

自分自身の中にある苦しみや矛盾を正面から見つめ、人間とは何か、人生とは何かという謎を追い続けたウイリアム・シェ−クスピア。その優れた観察眼と深い洞察力によって人間の根源を見極めようとした彼の作品は、400年の時を越え、今尚生き生きと語り継がれています。それは私達誰もが自分の中にハムレットと同じ矛盾に満ちた存在を抱えているからに違いありません。

彼は今も問い続けているのです。 
To be, or not to bethat is the question.

《知ってるつもり》199635 放送


シェークスピアの代表作品と名文句集

ロミオとジュリエット

ジュリエット→ロミオ
薔薇の花を別の名前で呼んでみても 甘い香りは失せはしない。

ローレンス神父→ロミオ
心の乱れている証拠だぞ、 このように朝早く寝床を抜出したりするのは。

ハムレット

重臣ホレイショー
朝日が茜色の被衣(かずき)をひろげ、 露を踏み締めながら、東の尾根を越えてくる。

ポローニアス→レイアーティーズ
金は借りてもいけず、貸してもいけずと。
貨せば金を失いあわせて友を失う。

ギルデンスターン
夢こそ大望、 野心の実体は所詮悪夢の宿す影にすぎませぬ。

ローゼンクランツ
大望などと申すものは空気のように頼りのないもの。 
影の、そのまた影にすぎませぬ。

ハムレット
こうして反省というやつが、 いつも人を臆病にしてしまう。

ハムレット→母ガートルード
習慣という怪物は、どのような悪事にも たちまち人を無感覚にさせてしまう。

ハムレット→親友ホレイショー
来るべきものは、いま来なくとも、いずれは来る。

リア王=乱

リア
誰でもいい、教えてくれ、わしはなにものだ。

道化
リアの影法師だい。

から騒ぎ

恋は水物、時の物、キューピットの矢で 落とされるものもあれば、罠で捕まるものもある  。

夏の夜の夢

ライサンダー→ハーミア
今まで物語や歴史の本をいろいろ読んだことがある
まことの恋がおだやかに実を結んだためしはない。

妖精パック
はて、さて、なんと馬鹿者ばかりでござろうか、 人間というものは。

十二夜

道化師フェステ→侍女マライヤ
知恵ある阿呆は阿呆な知恵者にまさる。

オセロー   黒人オセローと白人デズデモーナの波瀾万丈の物語
       
⇒オセロゲームの語源

寝取られたオセロー
盗まれて、失われたものに気づかぬ男には、 それを知らせてやることはない

テンペスト 1611年、最後の作品

プロスペローが人生について語る美しい台詞

この地上に在るー切のものは、結局は溶け去って、いま消え失せた幻影と同様に、あとには一片の浮雲も残りはしない。
我々人間は、夢と同じもので織りなされている。
はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。

マクベス

魔女
親指がぴくぴく動く、何か悪いものがこっちに近づいて来る。

マクベス
人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。 あわれな役者だ。

マクベス
あすが来、あすが去り、そしてまたあすが ・・・。
こうして一日一日と小きざみに、 時の階(きざはし)を滑り落ちていく

緑の部屋「文学のページ」
ウィリアム・シェイクスピア作品集(映画・テレビ)はこちらから


 

詩人=金子 みすヾ

若き童謡詩人の中の巨星

  

金子みすヾ:1903年4月11日〜1930年3月10日
本名、金子テル。明治36年(1903年)山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙
崎)に生まれた。大正12年頃(20歳の時)から詩を書き始め、金子みすゞのペンネ
ームで雑誌に投稿するようになる。大正末期、すぐれた作品を発表し、西条八十に
「若き童謡詩人の中の巨星」と称賛される。しかし、26歳の若さでこの世を去った。
1982年、童謡詩人・矢崎節夫氏の長年の努力により遺稿集が見つかり、蘇った。
その優しさにつらぬかれた詩句の数々は、今大きな感動をもって、人々の心に広が
り始めている。

朗読女優 小口ゆいの公式サイトより転載

(金子みすヾの詩から)

--- 大漁 ---

朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰮の 大漁だ

浜は祭りの ようだけど 
海のなかでは 何万の 
鰮のとむらい するだろう

 

--- わたしと小鳥とすずと --- 
        
わたしが両手をひろげても  お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように 地べたをはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし みんなちがって、みんないい。 

 

---つもった雪---

上の雪  さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪  重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪  さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。


---不思議---

私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかつてゐることが。

私は不思議でたまらない、
青い桑の葉食べてゐる、
蠶が白くなることが。

私は不思議でたまらない、
たれもいぢらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。


(Iさんのコメント)

12月1日発行の読売新聞朝刊「ジュニアプレス」の欄に、
その小口ゆいさんのことが掲載されております。
このページは、小・中・高校生による「ヨミウリ・ジュニア・プレス」の記者たちが取材し、
書いた記事を中心に構成されている。
小口ゆいさんの記事は、小学6年生と高校2年生の女子生徒が執筆したものを掲載。

内容は、
「金子みすゞの詩世界 味わって」女優・小口ゆいさんが東京で朗読会の見出し記事
10月20日に東京芸術劇場で開催された
「小口ゆいの朗読世界 誕新ーまばたきするまになにがある」の模様を取材したもの。

花や鳥など地球のすべての生き物に温かい目を向けた童謡詩人金子みすゞの作品を、
教科書で読んだ人たちも多いでしょう。
生誕百年の今年は、この天才詩人に親しむ公演が相次いでいます。と書き出している。
とても、小学生、高校生の文章とは思えない素晴らしいものです。

この公演の模様を詳しく記述されて、後半に小口ゆいさんの談話が掲載されている。
「金子みすゞの詩を、目で読むだけでなく、ぜひ声を出して読んでほしい。
そうすることで、"寝ている&カ字が生きた文字になります」

記者は、小口ゆいさんの語りに接して、
金子みすゞが好きだったふるさと、山口県仙崎の光景が頭に思い浮かぶようでした。
また、日本語の美しさ、声に出して読むことの素晴らしさも感じることが出来ました。
と記述している。

Webサイト「金子みすずの世界」はこちらから


 

哲学者=アリスト・テレス

Aristoteles

ITパラダイムの先駆者

  友とは二つの肉体に宿れる一つの魂である

                                             アリストテレス


ラファエロ、アテネの学堂(学校)より
右がアリストテレス(左はプラトン)

アリスト・テレス;BC384年〜BC322年
ギリシャのマケドニア地方で生まれた。古代ギリシャの哲学者・科学者である。17歳でプラトン学園に入り、プラトンに師事する。BC343年にマケドニア王フィリプス2世に招かれ、若きアレクサンドロスを教育した。

アリストテレスは世界最初のアナリスト

アリストテレスは紀元前384年または385年に、イオニア系殖民都市スタゲイロスにイオニア系ギリシャ人の子として生まれました。当時、スタゲイロスは事実上マケドニアの支配下にあり、父はマケドニア王ピリポスの侍医を務めました。17歳の時、アテナイ(アテネ)にあるプラトンのアカデメイア(アカデミーの語源:学校)に入り、研究と教授を務めました。プラトンの死後、その甥のスペオシッポスが学頭になったのに嫌気がさし、37歳のときアテナイを去ります。以降49歳までの間はアリストテレス遍歴の時代と呼ばれています。

 40歳ごろ、ピュティアスという女性と結婚。不幸にも彼女は結婚後数年で死去します。その数年後に、他の女性ヘルピュリスと同棲し、二コマコスという男子が生まれます(後年、この子がアリストテレスの「倫理学」を編纂したので、その著作が「二コマコス倫理学」と呼ばれるようになりました)。この間、後のマケドニア王、アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)の個人教授に就きます。

 49歳ごろアテナイに戻り、アレキサンダー大王の援助によって、「リュケイオン」(学校)を創設しました。アリストテレスは経営手腕にも卓越しており、リュケイオンは立派な博物館や図書館を持つ当時世界一整備された学園でした。大王の死を契機に反マケドニア運動が起こったため、母の故郷エウボイアのカルキスに逃れますが、紀元前322年、失望と不安から胃病を病み62歳で病死しました。

 アリストテレスの略歴を今風に解釈します。数学が得意だった田舎の天才少年が一流大学に入り、大学院を出て有名な教授になりますが(あるいは一流企業に就職して大活躍し、次期社長と目されるまでになりますが)、権力抗争に敗れ野に下ります。その後、強力なスポンサーの後押しでベンチャー企業を起こし、その卓越した経営手腕によって世界一の企業にまで成長させます。しかし、不幸にも天運は彼に味方せず、ノイローゼで早死したということです。

 ギリシャ哲学は「哲学」と呼ばれてはいますが、実際には諸学が混在しています。ラファエロが描いた「アテネの学校」という有名な絵があります(1502年完成)。絵画の中央左にプラトン、右にアリストテレスが描かれています。プラトンの側にはソクラテスやヘラクレイトスなどの哲学者が描かれ、アリストテレスの側にはデモクリトスやアルキメデスなどの科学者が描かれています。ソクラテス、プラトンの流れを汲む「哲学」とデモククリトス、アリストテレスの流れを汲む「科学」に大きく分離・発展していったと考えられます。アリストテレスは「科学」を代表する巨頭なのです。

アリストテレスの著作は分析ツールだ

 アリストテレスの著作は多岐に渡っています。このうち「オルガノン」は論理学の本で、「カテゴリアイ(範疇論)」「命題論(言葉によるものごとの明示について)」「分析論前書」「分析論後書」「論拠集(トピカ)」「ソフィストの論法について」という著作で構成されています。このうち、前4冊が、ITエンジニアにとっては特に重要です。

 「範疇論」は実体(オブジェクト)をベースとしたカテゴリー論が説かれており、「命題論」は名指し言葉(名詞)と述語(動詞)、および肯定と否定についての定義がなされています。「分析論前書」は、おなじみのアリストテレスの三段論法が書かれており、論理学テキストそのものです。「分析論後書」は「科学的論証(証明)」とは何かということを定義した著作です。

 「オルガノン」は、ギリシャ語で「道具」という意味です。一般的には、「オルガノンは哲学するための道具である」と解釈されています。しかしアリストテレスを「哲学者」ではなく、どちらかというと「科学者」あるいは「分析者」であるという見方もあります。すると、「オルガノン」は分析するための道具、あるいは科学するための道具である。つまり、「オルガノン」はソフトウェア開発の上流工程(要件分析、要件定義、基本設計)におけるモデリングツールとして役に立つのです。

 「コンピュータ」という「道具」を使って構築された「コンピュータシステム」は、アリストテレスのオルガノンに基づくモデルを利用して構築された現実世界の1つの表現例であるとも考えられます。オブジェクト指向は、このアリストテレスモデルの部分的な実装なのです。

 今、次のITパラダイムとして「オントロジー(存在論)」という言葉が流行の兆しをみせています。オブジェクト指向の本質を評価・理解する上でも、もう一度紀元前に立ち戻る必要がありそうです。

アリスト・テレスの業績は「物理を発展させた人々」のサイトで確認できます。


 

写真家=荒木 経惟

(通称:アラーキー)

荒木経惟(あらきのぶよし);1940年5月25日東京都台東区三ノ輪生まれ。
千葉大学工学部写真印刷工学科卒。 1963年広告代理店電通入社、 写真部に所属。
1964年写真集「さっちん」で 第1回太陽賞。 1972年電通退社。
1974年東松照明・細江英公・ 森山大道・横須賀功光・深瀬昌久らと「WORKSHOP写真学校」の設立に参加。1976年荒木経惟私塾開設。 1981年事務所「アラ−キ−」開設。
●主な写真集と著作: わが愛・陽子、偽日記、写真生活、写真論、 天使祭り、荒木経惟写真全集(平凡社全20巻)、 荒木経惟文学全集(平凡社)。中でも「東京」の名をつけた数多くの写真集を発表。「東京は、秋」「私東京」「東京ブル−ス」「東京エレジ−」「東京写真」「東京劇場」「東京日記」ほか。
●受賞歴:太陽賞、東川賞(国内作家賞)、 日本文化デザイン会議賞、織部賞など多数。

天才アラーキーこと荒木経惟には、彼のイメージから来る先入観から、

エロい写真家として認識する人もいるようです。

でもその感覚は間違っています。

写真家が芸術家とマス・イメージ製造者という2極の中にあって、

荒木経惟は、何者として存在いるのかを道化芝居のように演じています。

1971年、自分の新婚旅行を撮った写真集「センチメンタルな旅」によって、

鮮烈な衝撃を写真界に与えました。

その写真は、

それまでの写真が無意識のうちに排除してきた私的な眼差しを復権させるものでした。

大股びらきのヌードと日常的な生活光景が交錯するその写真的世界は、

単なるエロチシズムや風景という言葉でくくることはできません。

しばしば自分自身も写真の中に登場するという方法や、

「劇写」「エロリアリズム」「アラーキズム」など数々の造語による自分自身への名付けは、

単なるパフォーマンスを越えて、

荒木の写真の持つ虚実皮膜の世界を現実の中に打ち込むものとなっています。

さらに荒木が現代的であるのは、

そのような行為と言葉を「写真家」という存在に焦点を結ばせようとするところにあります。

旺盛な制作活動が絶えずスキャンダルに彩られた「現代の鬼才」です。

荒木経惟氏のページはこちらから


 

漫画家=手塚 治虫

究極のスーパークリエーター

手塚 治虫;1928年11月3日〜1989年2月9日

ここでは、天才を「人間と同等のもの、またはそれ以上のものを創り出す力がある人」と定義しましょう。いわば「究極のスーパークリエーター」です。そういう意味で、手塚治虫は天才です。単なる漫画家ではなく、今、いろいろな工場で動いているロボットの発想上の元祖でもあります。

手塚治虫という人は、今でこそ漫画の神様になってしまいましたが、その地位まで祭り上げられるには相当の苦心があったようです。天才肌なのは生まれつきのようですが、人間らしく思い悩んだり、嫉妬したり、いらいらして怒鳴り散らしたり・・・我々比較的若い世代が知る、穏やかな笑みを浮かべたベレー帽の紳士のイメージに至るまでにはいろいろな事があったようです。新しい漫画の手法として、映画のようなコマ割を編み出し、一世を風靡した青年時代。実力のある新人の群雄割拠に王者の気概を持って、高レベルの作品を量産した中年期。

しかしながら自分の作品のマンネリ化、そして時代の流れにより自分の画風が古ぼけてゆくことの認識します。それらが天才を自負する手塚治虫を次第に大きく苦しめていきます。しかし、手塚治虫が生み出した漫画は決して古びたりはしません。今持ってなお名作の輝きを放ち続けるのです。

鉄腕アトムやジャングル大帝、ブラックジャック、火の鳥などのメジャー作品から、無数の古風ゆかしき初期の作品たち、またはアダルトな風味のフースケ、人間ども集まれ、アンソロジーもののタイガーブックス、ライオンブックス、怪奇もののバンパイア、三つ目が通る、伝記物のブッダ、ジャンルは限りなく、無数にあり、これがたった一人の頭脳が生み出したものとはとても思えません。しかしそれは事実なのです。それこそが、手塚治虫こそ漫画の天才であると認めるゆえんです。    


 

料理人=フランソワ・ヴァテール

Francois Vatel

稀代の美食家ルイ14世をも唸らせた伝説の宮廷料理人

 

フランソワ・ヴァテール;1635-1671
ヴァテールはフランドル出身で、菓子屋で修行し、1653年、時の財務長官ニコラ・フーケの料理長として雇われた。働き者のヴァテールはすぐにその才能を認められ、メートル・ドテル(宴のすべてを取りしきる総責任者)に任ぜられた。しかし、フーケは国王ルイ14世に嫌われ終身刑を受ける。ヴァテールはフーケの余罪を免れるためにイギリスに逃亡。何年かイギリスやベルギーで亡命生活を送った後、シャンティイ城のコンデ大公に迎えられ、宴会の総監督に任命された。ちょっとした失敗からルイ14世に仕事を干されてしまったコンデ公は、名誉回復と国王の信任を取り戻すため、1671年4月22日、ルイ14世とその家臣500名を居城シャンティイに招待する。そこで3日間の大晩餐会が催された。その仕切りを任されたのが、フランスきっての天才料理人として後世に名を残すフランソワ・ヴァテールだった。ヴァテールは、国王の信頼を取り戻そうと必死のコンデ大公の意を汲み、贅とアイデアを凝らした宴席をしつらえる。彼は3日3晩続く宴のため、珍味を揃えた究極のメニューと、バレーやオペラ、花火を使った大掛かりな余興を準備することとなった。その宴の3日目の朝、必要な魚が足りないことに気づき、憔悴しきったヴァテールは自決する。残りの魚が届いたのは、その瞬間だった。彼の死と才能は当時の文化人セヴィニエ夫人の手紙によって、後世に伝えられた。ヴァテールは、宮廷の料理人として現在のフランス料理の原点を作ったといわれる。そして、フランス料理史によると、クレーム・シャンティイ(ホイップクリーム)を発明者としても有名である。ヴァテールがこの素敵なホイップ・クリームを世に知らしめたのは、フーケが自分のヴォー・ル・ヴィコント城にルイ14世を迎えての宴を催したときのことだった。この時はツゲや柳の小枝で泡立てたということだ。

伝説となった男がいた。その才能と誇り高い生き方が後世まで語り継がれた実在の天才料理人フランソワ・ヴァテール。彼はルイ14世を招いて催された歴史に残る3日3晩の目も眩む大饗宴を芸術家として指揮し、王を感嘆させた。料理史において、ヴァテールはクレーム・シャンティイの考案者、またヴァテール風スープに名を残し、デュマの「三銃士」、日本では澁澤龍彦の「華やかな食物誌」に誇り高き芸術家として賞賛されている。『宮廷料理人ヴァテール』は彼の3日間の饗宴に隠された愛と陰謀と欲望を描いた一大スペクタクル・ドラマだ。フランス映画史上空前の40億円の制作費を投じ、2000年カンヌ国際映画祭オープニング作品として上映され世界を唸らせた。また21世紀初のアカデミー賞受賞を狙い2000年12月に全米での公開も決定した今世紀最後の話題作だ。


 

俳優=ジャン・ギャバン

Jean Gabin

戦前戦後を通じてフランスを代表する俳優

  

ジャン・ギャバン;1904年5月17日〜1976年11月15日
フランス・メリエル出身。
本名はJean Alexis moncourge。父はミュージック・ホールの俳優、母は歌手という芸能一家出身。1918年に小学校を卒業すると人夫や倉庫係などさまざまな職に就く。1923年に父から劇場の支配人を紹介されて舞台に立つようになり1930年ごろまでオペレッタなどに出演。その後、端役で映画デビュー。始めはパッとしなかったが1933年あたりから注目され始め、1935年の「地の果てを行く」で人気を得た。以降は「どん底」「望郷」「大いなる幻影」という名作で人生の悲哀を巧みな演技で披露。やがて第二次大戦の戦火の逃れてハリウッドに移住。戦後フランスに戻って、「フレンチ・カンカン」や「現金に手を出すな」「ヘッドライト」で円熟味を増した個性を光らせた。1960年以降は脇に廻ったがその重厚かつ渋い演技力で「地下室のメロディー」「暗黒街のふたり」でアラン・ドロンをサポートするなど、最後まで存在感あるその個性には定評があった。1925年、1933年、1949年と三度の結婚を経験したが全て破局。マレーネ・ディートリッヒなど、共演女優との噂も多かったという。1976年、自らの集大成のような秀作「脱獄の報酬」を最後に、同年心臓発作でこの世を去った。

貫録はアラン・ドロンの美男ぶり圧倒

戦前戦後を通じてフランスを代表する俳優ジャン・ギャバンが、1976年心臓麻痺で死去しました。74歳。
 パリ近郊の生まれで、父はミュージックホールの芸人。母は歌手。暮らしは貧しく、ギャバンは10代半ばから肉体労働に従事しました。戦前のフランスの主演男優には、2枚目が多数います。その反対の、彼のぶ厚い胸、がっしりした体、きっと結んだ薄い唇に象徴される強い意志はこの労働時代につちかわれたものです。
 1923年、ギャバンは父の友人に紹介され、ミュージックホールで歌ったり芝居をしたりします。どれも端役に近い役柄でした。トーキー初期、G・W・パプスト監督「上から下まで」(1933年)、ジュリアン・デュビビエ監督「白き処女地」に主演して、たちまち注目されます。前述の通り、従来にない俳優ぶりが、個性的で新鮮だったからです。
 以後、「地の果てを行く」(1935年)、「我らの仲間」「望郷」「どん底」(1936年)、「大いなる幻影」(1937年)、「霧の波止場」(1938年)と続きます。1930年代後半のフランス映画は、ギャバン抜きで語ることができません。
 ことにお尋ね者のペペ・ル・モコが、パリから来た女と会うためにカスバの石段を港に下りて捕らえられ、自殺する「望郷」は、強烈な印象を残しています。
 もう1つの傑作はジャン・ルノワール監督の「大いなる幻影」。第1次大戦下、ドイツ軍の捕虜になったフランス将校が脱出を図ります。貴族出身の大尉ピェール・フレネーと労働者だった中尉ジャン・ギャバンが交わす、
 「やがて戦争のない時代が来るよ」
 「いや、それは大いなる幻想にすぎない」
の会話(脚本シャルル・スパーク)は、人類の永遠の問いかけともいえましょう。
 第2次大戦中はアメリカで2本の映画に出演しましたが、ハリウッドの虚飾は所詮、肌に合いませんでした。
 戦後帰仏したギャバンは、生き生きと第2期黄金時代を築きます。「港のマリー」(1949年)、初老のギャングの哀愁をにじませた「現金に手を出すな」(1949年)、中年のトラック運転手のはかない恋を描く「ヘッド・ライト」(1955年)など、若い頃にはなかった渋さが人々の心を打ちました。
 アラン・ドロンとの共演作もありますが、その貫録はドロンの美男ぶりを圧倒しました。
 結婚は3度。そのほかアナベラ・ミシェル・モルガン、マレーネ・ディートリッヒらと交流もあったそうです。

以上、Webサイト「芸能この日何の日」をもとにしました。


 

俳優=森繁 久彌

日本のエンタテイメント界の巨星

 
森繁 久彌;1913年5月4日〜
大阪府枚方市出身。
俳優、日本俳優連合理事長、あゆみの箱会長、「水と緑の館」名誉館長。
森繁久彌は、名家の生まれで祖父の弟は文人・成島柳北だという。森繁久彌誕生
時、父・菅沼達吉氏はすでに54歳。森繁久彌が2歳のとき死去。
 兵庫県西宮市鳴尾の堂島小学校から大阪府立北野中学(現・北野高等学校)に入学。北野中学時代は腕白でそのため1年留年したといいます。その後、上京し、早稲田第一高等学院を経て、1934年、早稲田大学商学部に入学。
 北野中学時代から芝居好きだった森繁久彌は、大学在学時代も演劇熱が高く、所属した演劇研究部では、後に映画監督として活躍する山本薩夫や谷口千吉が先輩部員にいたものの、彼らが左翼活動で大学を追われたため、早くから部の中心的存在として活躍。アマチュア劇団・中央舞台(のち人間座)に参加して築地小劇場を借り、「アンナ・クリスティ」を上演したという。大学2年の1936年、演劇熱が高じて大学を中退。 「夫婦善哉」「屋根の上のヴァイオリン弾き」などで知られる。戦後、コメディアンとして認められ、東宝専属俳優となる。

銀幕の天才 森繁久彌

森繁久彌は、兄の紹介で東京宝塚劇場(のちの東宝)に入り、日本劇場の舞台進行係を振り出しに、下積み劇団員として東宝新劇団、東宝劇団、古川緑波一座を渡り歩きます。東宝劇団では馬の脚を演らされるなど苦難の時代でしたが、緑波一座では古川緑波から一目を置かれました。

 1937年、緑波一座を退団して、一念発起してNHKアナウンサー試験を受験し、1939年合格。アナウンサー面接試験では「合格しやすいように」在任地に遠隔地を希望。入社後、即、満州の満州電信電話株式会社の新京放送局勤務となり敗戦まで中国大陸で過ごしました。ここで森繁久彌は多数のラジオ番組の原稿書き、演出を経験したといいます。このころに満州各地をルポした「森繁ルポタージュ」が国定教科書に採用されました。

 1942年、大学時代から交際していた萬寿子夫人と結婚(一部資料では杏子夫人と記載)。
 1945年の敗戦を新京で迎え、一時的にソ連軍に抑留されます。このころ2歳で父親を亡くしていた森繁久彌にとって父親代わりでもあった兄が戦病死。引き揚げの混乱で亡骸に会うことなく帰国。帰国は1946年11月。

 帰国後は、帝国座ショウ、空気座などを転々とし、このころ映画「女優」(1947、衣笠貞之助監督)へ出演し映画初出演。1948年7月には菊田一夫の紹介を得て有楽座での創作座公演「鐘の鳴る丘」(菊田一夫・作)に出演。翌1949年には、再建されたムーラン・ルージュに入り、「蛇(ながむし)」で主役を演じ、続けて「太陽を射る者」(1949)では歌を唄う場面にも挑戦してその存在が認められ始めました。

 1950年、ムーラン・ルージュを退団し、師事していた古川緑波の紹介でNHKラジオの人気番組「愉快な仲間」に出演しレギュラーに。長い下積みで培った幅広い芸域が重宝されるようになります。同じ1950年、映画「腰抜け二刀流」で初主演。1952年には主演映画「三等重役」が喜劇として高い評価を得て喜劇俳優として人気を不動のものにしました。

 その後、森繁喜劇はペーソス味をもつようになり、1955年、淡島千景と共演した映画「夫婦善哉」が注目を集め、決定的な評価を得ることとなりました。
 その後、同じ豊田四郎監督による映画「猫と庄造と二人のおんな」や、映画「神坂四郎の犯罪」(1956)、「南の島に雪が降る」(1961)、「青べか物語」(1962)など高い完成度の作品を発表する一方、「喜劇駅前」シリーズや「社長」シリーズなどの喜劇シリーズをヒットさせ、その芸の幅に一段とひろがりをもつに至り不動の人気を獲得しました。その後も「恍惚の人」(1972)で好演するなど映画への出演を重ね、出演映画は300本を超えるといわれます。

 森繁久彌の活躍は映画での活躍にとどまりません。テレビドラマでも草創期から活躍し、テレビ本放送が始まった1953年には早くも「生と死の一五分間」(NTV)に出演。デパートの屋上から投身自殺をしようとする男の15分間を描いた心理ドラマですが、15分間を描くのに、放送時間は30分というのが実験的でした。
 1958年には、テレビ放送開始によって映画が斜陽産業となることを予言したドラマ「マンモスタワー」(KR)にも出演。
 1964年にはテレビドラマ「ナショナル劇場/七人の孫」(TBS)がヒット。続いて「ナショナルゴールデン劇場/だいこんの花」シリーズ (1970〜、NET)などでテレビドラマでのホームドラマの定型を築きました。「だいこんの花」では息子役の竹脇無我と息のあったところを見せ、本物の父子のようだと評されました。ここで森繁久彌は向田邦子を見出して脚本家として重用するなどドラマ界に多大な影響を残しました。
 このほかのテレビドラマの代表作としては「ナショナル劇場/青年の樹」(1961TBS)、「太陽の丘」(1966NHK)、「ナショナル劇場/S・H は恋のイニシアル」(1969TBS)、「あんたがたどこさ」(1973TBS)、「さよなら・今日は」(1973NTV)、「ナショナルゴールデン劇場/どてかぼちゃ」(1975NET)、「三男三女婿一匹」(1976TBS)、「ドラマスペシャル/吉田茂」(1983KTV)、「黒い雨」(1983NTV)、「年末時代劇/忠臣蔵」(1985NTV)、「おやじのヒゲ」シリーズ(1986〜TBS)、「初春ドラマスペシャル/小石川の家」(1996TX)などがあります。

 音楽活動の方面では、「知床旅情」を発表。もともと「知床旅情」は映画「地の涯てに生きるもの」の撮影のため1960年3月から7月にかけて北海道、知床・羅臼村を訪れた森繁が村を去るに際して即興で作った歌「サラバ羅臼」がもとになっています。哀愁あふれるこの歌はその後、1962年に「NHK紅白歌合戦」で「知床旅情」と題して森繁自らによって歌われ、1965年にはレコード化されました。さらにその後コンサートツアーで北海道を訪れた加藤登紀子が流氷を見た感動から突然、演目にないこの歌を歌ったといいます。うろ覚えで歌ったため森繁作詞の原盤とは歌詞が若干異なってしまいましたがこれが1970年、「知床旅情」としてレコード化され今日も口ずさまれています。

 舞台活動での活躍も持続。1962年には森繁劇団を結成、1967年からスタートしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は上演900回、総観客動員165万人を記録。森繁久彌の演じたテヴィエ役の存在感は現在も語り継がれています。

 このほか、出演するラジオ番組「日曜名作座」(NHK)は放送2000回を突破するなど実に多彩な活動を現在も旺盛に続けており、日本のエンタテイメント界の巨星の一人です。

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森繁久弥映画祭記念出版として、映画評論家・山田宏一編による「銀幕の天才 森繁久弥」が、ワイズ出版より2003年5月に出版されています。

森繁久弥最新インタビュー、淡島千景インタビュー、松林宗恵エッセイ、
文芸座上映42作品(森繁と名匠たち;森繁喜劇名作選;森繁“変幻自在”)、
資料篇(森繁久彌出演映画作品;森繁久彌出演テレビ主要作品;森繁久彌出演舞台主要作品)などで構成されています。


 

演出家=蜷川 幸雄

(Ninagawa Yukio)

当代一の演出家

「ニナガワは、現存する世界中の演劇界の魔術師たちの誰よりも
シェイクスピアを再現する方法を知っている」---英インディペント誌

 
蜷川 幸雄:1935年(昭和10年)10月15日〜
埼玉県川口市生まれ。 55年に劇団青俳に入団し、67年に劇団現代人劇場を創立。69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。72年演劇集団「櫻社」結成、74年同劇団を解散後、『ロミオとジュリエット』で大劇場演出を手掛けるようになった。以来、名実共に演劇界の第一人者として活動し続け、近年も、98年から始まったシェークスピアの全作品上演計画、上演時間が10時間半という昨年の『グリークス』の公演など話題に事欠かない。また、83年の『王女メディア』ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外遠征を行い、ヨーロッパをはじめアメリカ、カナダなどで高い評価を得ている。ことに近年では、96年『夏の夜の夢』、97年『身毒丸』、98年『ハムレット』と、連続したロンドンでの公演が話題を呼び、さらに99年から2000年にかけてはロンドンとストラッドフォードで、ロイヤルシェークスピアカンパニーと共に、『リア王』を長期上演した。88年『近松心中物語』の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。92年には、英国エジンバラ大学名誉博士号を授与された。また、84年に始めた「蜷川スタジオ(ニナガワカンパニー)」では、若手の演劇人たちと共に、積極的に実験的な演劇作品を生み出し続けている。                         蜷川幸雄の公式サイトより転載


蜷川幸雄著/長谷部浩著「演出術」書評より転載

蜷川幸雄・・・日本一有名な演出家でしょう。最近ではシェイクスピアやチェーホフなど古典作品の演出が多いですねぇ。個人的には若いころに関わっていた清水邦夫さんと作っていた舞台を観たいのですが・・・映像は残ってないだろうなぁ。
今でも蜷川さんから湧き出てくるパワーは、なんかすさまじいです。蜷川さんの古典をあつかう舞台にあふれる人間の『業』みたいなものは揺さぶられます。

著者の長谷部浩は、演劇評論家としてさまざまなジャンルの劇評を手がけています。この本は、1999年の「リチャード3世」の稽古場での取材から始まり、演出作品を軸にした2年半以上にわたるインタビューの集大成となっています。その多くは、稽古時だけではなく、開幕してからの話も追加しているといいます。さらに、この数年の間に再演されることがなかった戯曲「王女メディア」や「ロミオとジュリエット」なども取り上げられており、蜷川の仕事の全貌が見えます。

蜷川幸雄 公式ホームページはこちらから

 スペクタクル音楽劇「NINAGAWA 火の鳥」鑑賞記録
(fukui作「楽園へのいざない」のサイト内)はこちらから

 

蜷川幸雄は、シェイクスピアの全戯曲を演出する。

さいたま市中央区(旧・与野市)の「彩の国さいたま芸術劇場」において、13年がかりで全37作品を上演する。
シリーズ名は「彩の国シェイクスピア・シリーズ」
2004年1月16日から2月1日まで、第13弾「タイタス アンドロニカス」を上演。

彩の国さいたま芸術劇場の案内はこちらから。


 

映画監督=スティーブン・スピルバーグ

Steven Spielberg

うーんやっぱり娯楽映画の神様だね

 

スティーブン・スピルバーグ;1947年12月18日〜
本名はSteven Allan Spielberg。少年時代から映画制作に非常に興味を持ち、12歳で8ミリの短編を撮り、14歳で後の「プライベート・ライアン」を彷彿とさせる40分の戦争映画「Escape to Nowhere」を作った。16才の時8ミリで最初のSF作品で2時間半の長編「Fire light」を総製作費500ドルで完成。カリフォルニア州立大学に入学後、デニス・ホフマンと知り合い、彼の出資で68年に製作した初の35ミリ作品「Amblin(アンブリン)」がベニスとアトランタの映画祭で入賞し、当時のユニヴァーサル社副社長に認められ、テレビ映画の監督として契約。「刑事コロンボ/構想の死角」などを撮り、72年に監督したリチャード・マシスン原作・脚本の「激突!」が高い評価を受ける。74年の「JAWS/ジョーズ」は出演者やスタッフのサポートもあって完成度の高い娯楽作となり、世界中で大ヒットを記録。以後、ハリウッド新世代のトップ監督となった。「未知との遭遇」、「E.T.」など善良なエイリアンを描いたSFや、007シリーズに挑んだ「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」などを発表。
「シンドラーのリスト」でアカデミー監督賞をはじめ7部門に輝いた。「プライベート・ライアン」で2度目のアカデミー監督賞を、他にも「未知との遭遇」「レイダース」「E.T.」「カラーパープル」でノミネートされている。2001年1月には、英国王室からナイトの称号を受けた。監督のほか製作、製作総指揮を担当する作品も数多く、「シークエスト」などTVドラマも多く手掛ける。

 

巨匠の歴史スティーブン・スピルバーグより転載

 

●映画界を席巻し、批評家を敵にまわした
海洋恐怖映画「ジョーズ」が映画興行の概念を塗り替えてからというもの、スピルバーグの映画は次々と興行成績を更新。製作総指揮者としてもブロックバスターの斬新な企画を提供してやまない彼は、みるみる映画界を席巻していった。

「スピルバーグなら面白くて当然」・・・大衆はこういった先入観を抱くようになり、今となってはスピルバーグの「面白い」という宣伝文句は神の声にもまさる。まさにスピルバーグという人間が「映画」そのものになりつつある。

はたして映画批評家たちはそんなスピルバーグを素直に尊敬できたか? スピルバーグの映画は本当によくできているし、沢山の映画の醍醐味が詰まった傑作ばかりで、怖くなるほどケチのつけどころがない。だが、チヤホヤされている者は、いつの時代も大勢敵をつくるもので、やはりスピルバーグは嫉妬心の強い批評家たちから毛嫌いされた。

硬派なヒューマンドラマ「カラーパープル」は高い支持を得ているのにも関わらず、アカデミー賞では惨敗。黒人たちは「これはスピルバーグに対する冒涜だ」とアカデミーに抗議し、社会問題にまで発展。同じように芸術映画愛好家を気取っている人たちも、スピルバーグの映画を何かとコケにしていたようにも思える。

スピルバーグをコケにすることで、自分が人よりも鑑賞眼がある人間だと見せつけようとする輩に攻撃された。だいたいスピルバーグの映画が芸術ではないという考えは、捨てるべきである。まず第一作の「激突!」からしてすでにスピルバーグの映像センスは神業であったのだ。娯楽と芸術は紙一重。「インディ・ジョーンズ」の冒険活劇を見て大興奮することは、映画芸術体験そのものである。スピルバーグを悪く言う連中は映画芸術を何もわかっちゃいない。

●映像と音楽の魔術師、1993年更に脂が乗る
93年はスピルバーグの年であった。この年から、批評家たちのスピルバーグの見方がガラリと変わる。「シンドラーのリスト」はこの時代に珍しくモノクロームの映像で、強制収容所の実体をストレートに描写したシリアス巨編で、あくまで娯楽映画として徹底した見せ場を盛り込んだ作風で、これにより念願のアカデミー賞を初受賞。同じ年、先に公開した「ジュラシック・パーク」がすでに社会現象ともいうべき一大ムーブメントを巻き起こしており、ますます脂が乗った頃であった。

スピルバーグの映像と音楽は、感動をぐんぐんと高揚させる力がある。「ジョーズ」でサメが接近する所でかぶせられる音楽の緊張感たるや、彼の尊敬するヒッチコックやトリュフォーでも出せなかった「今風」の映画的恐怖に色づけされた名演出である。

「ジュラシック・パーク」ではCGと映像の融合にも完全に成功しており、CGの可能性を認めさせたと同時に、デジタル音声の力も遺憾なく発揮させ、映画館内に観客の悲鳴を轟かせた。同作は、芸術としてだけでなく、科学的にも21世紀の映画の幕開けを告げた名作といえよう。

「E.T.」で、少年たちが自転車で空を飛ぶシーン、「未知との遭遇」で外宇宙の異星人たちとコンタクトを取るシーン、夢のある映像、計り知れない創造力に裏打ちされた映像に、観客たちはただただ感動するばかりである。彼の映画は、我々を日常世界から、全くの架空の別世界へといざなう。だからこそ本当に怖く、本当に優しく、本当に心に訴えかける。映像から、ストーリーから、音楽から、スピルバーグの演出は確かであり、我々は彼の思いのままに陶酔させられる。こういう魔力を持つ監督は、世界中を見ても、スピルバーグ唯一人しかいない。

スティーヴン・スピルバーグ作品集はこちらから


 

映画監督=黒澤 明

Kurosawa Akira

スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスにも影響を与え、

天皇とも呼ばれた完全主義の映画監督。

 

 

(右の写真)
90年アカデミー賞特別賞受賞式の黒澤。
アメリカの二人の弟子、スピルバーグとルーカス。

黒澤 明;1910年3月23日〜1998年9月6日
東京都出身。旧制京華中学卒。1936年(昭和11)P.C.L(のち東宝に合併)に入社。43年「姿三四郎」で初監督。「羅生門」が51年のベネチア国際映画祭グランプリを受賞、斬新なカメラワークとアクションは世界に衝撃を与えた。54年「七人の侍」では雨中の騎馬上の戦闘場面など世界の映画史上にも残る映像を撮った。85年文化勲章、98年(平成10)国民栄誉賞追贈。

追悼 黒澤明

巨人黒澤明逝く〜 より転載

  

我々はニセモノに囲まれて生きている。おそらく我々の周りの99.9%はウソとインチキとデキソコナイばかりだ。もしかしたらこの自分そのものが、ニセモノかもしれない。早くニセモノの衣服で身を固めている自分に気づかなければ、短い一生をニセモノとして終えてしまいかねない。

では我々はどうしたらいいのか。どのように自分が身にまとっているニセの衣服を脱ぎすてればいいのか?その一番良い方法は、本物に触れる事であろう。本物の感触を味わい、本物とニセモノを嗅ぎ分ける嗅覚をもつことだ。

そんなことを考えていたら、このニセモノばかりの世の中で、数少ない本物の男がこの世を去った。その人物の名は、あの映画監督、黒澤明。88歳の大往生であった。

私自身、非常に影響を受けた人物だけに、大きなショックに見舞われた。世界中が、彼の死に弔意を示した。

いち早くコメントを発表したのは、スティーブン・スピルバーグだった。黒澤を師とも父も尊敬するスピルバーグは、黒澤死去の感想を聞かれ、沈痛な表情で、サッド、サッド(悲しい)、と二度繰り返した。

彼にとって、黒澤は、ただの異国の映画監督ではない。黒澤の横にいる時の彼は、まるでおっかない父の前にいる少年のようだった。もちろんスピルバーグ自身、黒澤に映画の手法を教わっているわけではない。しかしおそらく世界の誰よりも黒澤の作品に多く触れ、深く研究し、その黒澤のやり方を自分の作品に取り入れているのが彼である。だからこそスピルバーグにとって、黒澤は、映画の本質を教わった師であり、偉大な映画の父とも言える特別の存在なである。

スピルバーグは、新しい映画を撮る時には必ず、黒澤の作品を何度も見て、自分の気持ちを極限まで高めてから始めると語っている。彼にとってみれば、何度となく、見ている作品だから、目を瞑っても、様々なカットが出てくるくらいなはずだ。しかしそれでもその作品に投影されている黒澤という芸術家の気をもらっていたのである。

人間というものは、不思議なものである。毎日顔を合わせているのに、心が通い合わない関係というものがあるのに、黒澤とスピルバーグのように、生涯にほんの数度しか会わなくても、理解し会える関係もあるのだ。おそらくスピルバーグの人生の目標は、黒澤の築いた映画の伝統を引き継いでさらに、もっと高い次元に映画芸術を引き上げることにあるはずだ。

そのためかどうかは知らないが、スピルバーグには、黒澤にない商才という才能があるような気がする。それは芸術的な面では大したことのない「ジェラシック・パーク」のような作品でも、とりあえず撮って、次回作の糧にするということだ。おそらく現在スピルバーグにとって、本当に撮りたい作品というものは、自分のアイデンティティーに絡んだような「シンドラーのリスト」のような作品のはずだ。

その点、黒澤は、自分で納得できない作品は、一切撮らないという非妥協的な真の芸術家である。例えば、1964年の東京オリンピックの記録映画は、その制作費が余りに安いこともあって、監督を引き受けなかった。また日米海戦を描いた日米合作の超大作「トラ、トラ、トラ」でも監督を途中で降りてしまった。スピルバーグは、そんな自分とは違うタイプの巨匠黒澤明を、心の底から敬愛しているのである。彼は黒澤のことを「映画の世界のシュークスピア、永遠の古典」と最大級の賛辞で称えた。

要するに黒澤の作品が時代という壁を越えて永遠に残る真の芸術であることを認めているのである。この世に永遠に残り得る本物なものなど、そんなにあるものではない。

 

黒澤明監督・お別れの會〜 より転載

当初ハリウッドの著名監督の参列が噂されていたが、結局マスコミによる先走った噂で終わった。しかし3000通が寄せられた弔電のうち100通は海外からで、その中には参列が噂された中の一人『スター・ウォーズ』の監督で『影武者』の海外版のプロデュースを担当したジョージ・ルーカスからの弔電があり、披露された。その中でルーカスは「黒澤明監督の死去を知り深い悲しみにくれています。世界は豊かな宝物をなくしてしまいました。映画作家として、黒澤監督は真の天才であり、驚嘆に値する力強い作品を残しました。彼は本当の意味での芸術の達人でした」と師である黒澤監督へ賛辞と別れの言葉を述べた。

「黒澤 明の世界」はこちらから


 

映画監督=宮崎 駿

Miyazaki Hayao

オレは一世一代の美形を描いているんだ〜(宮崎駿)

宮崎 駿;1941年1月5日〜
映画監督・アニメーション作家。東京都文京区生まれ。1963年、学習院大学政経学部卒業後、東映動画に入社。1985年、スタジオジブリ設立。『太陽の王ホルスの大冒険』(場面設定・原画)、『長靴をはいた猫』(アイデア構成・原画)など、数々のアニメーション映画に参加。その後、『ルパン3世』(演出)、『アルプスの少女ハイジ』(場面設定・画面構成)、『母をたずねて三千里』(場面設定・レイアウト)、『未来少年コナン』(演出)を経て、『ルパン3世 カリオストロの城』で初監督。以後、映画『風の谷のナウシカ』より一連のジブリ作品制作の中心となる。2001年7月、映画『千と千尋の神隠し』を公開、翌年、アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞。
著書に、漫画『風の谷のナウシカ』、小説『シュナの旅』、絵本映画『もののけ姫』、随筆集『出発点1979〜1996』(以上徳間書店)、随筆集『トトロの住む家』(朝日新聞社)など。

切通 理作著 ちくま新書「宮崎駿の"世界"」の書評より

今の日本社会に、最も大きな影響を与えている映画監督は誰か?
この問いに対する答えは、1つしかない。宮崎駿である。幼児から大人まで、女子高生から映画評論家まで、これほど幅広い人たちに熱狂的に支持される映画監督は宮崎駿の前にはいなかったし、この点で宮崎駿を超える監督はもう現れないだろう。また単に人気があるだけでなく、若い世代を中心とした人たちの価値観に大きな影響を与えている。実際、ぼく自身も『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの作品を小学〜中学生の頃に観て、かなりの影響を受けた。手抜き無しの面白さの中に込められた、明確なメッセージ。影響を受けずにいることの方が難しい。

この本は、宮崎駿の映像作品を子細に分析すると同時に、膨大な関係資料から本人のインタビューや関係者の証言を集め、宮崎作品の魅力の源を徹底的に探った意欲的な評論である。

ふくちゃんの推薦文

宮崎駿監督はスピルバーグ監督を遥かに超えた映画監督だとも言われています。世界最高のアニメーション監督と言っても過言ではありません。今やスピールバーグと並ぶと言われるディズニーの監督(トイ・ストーリー等の監督)ジョン・ラセターも宮崎駿の大ファンで、師と仰いでいるそうです。ディズニーの制作現場にトトロの人形がよく見られ、みんなファンだといいます。ディズニーアニメーションも、宮崎アニメーションの影響を受けている場面も良く見受けられるそうです。宮崎アニメは、どの作品にも凡人には創造できないスケールの大きな世界観、感動に満ち溢れた夢のあるストーリーを提供してくれます。

宮崎駿ファンが待ちに待った最新作『千と千尋の神隠し』が2001年7月20日に全国公開されました。公会当日、日比谷スカラ座の初日は午前5時時点で2000人超が行列を作るという、あの『もののけ姫』以上の盛況ぶりとなったそうです。『千と千尋の神隠し』は、『もののけ姫』で世界中に注目された巨匠・宮崎駿監督の待望の大作アニメ。宮崎駿の清冽な魂が、ひとりの少女の孤独な世界をゆさぶります。

■ 主な監督作品
1984年 「風の谷のナウシカ」(原作・脚本・監督)
1986年 「天空の城ラピュタ」(原作・脚本・監督)
1988年 「となりのトトロ」(原作・脚本・監督)
1989年 「魔女の宅急便」(プロデューサー・脚本・監督)
1992年 「紅の豚」(原作・脚本・監督)
1997年 「もののけ姫」(原作・脚本・監督)
2001年 「千と千尋の神隠し」(原作・脚本・監督)
2004年 「ハウルの動く城」公開予定

■ 受賞
1980年 『ルパン三世カリオストロの城』で第18回大藤信郎賞受賞。
1994年 『風の谷のナウシカ』により第23回日本漫画家協会賞大賞受賞。
2000年 第3回司馬遼太郎賞受賞。
2002年 『千と千尋の神隠し』でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。
2003年 『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞長編アニメ映画賞受賞

●『風の谷のナウシカ』からの言葉
   泣くな いま考えなければ 泣いてはだめだ
   でも泣きたいの マスクを引きちぎって大声をあげたいの

●『天空の城ラピュタ』ゴンドアの谷にある歌
   土に根をおろし、風と共に生きよう
   種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう

●『もののけ姫』のCMにも使われた有名な言葉
   あのこを解き放て!あのこは人間だぞ!!

●宮崎監督自身の名言
   オレは一世一代の美形を描いているんだ〜。

宮崎駿監督が主催する「スタジオジブリ」のホームページはこちらから
The Hayao Miyazaki Webはこちらから
fukui作「千と千尋の神隠し」映画感想文はこちらから


 

政治家=織田信長

戦国の風雲児

 

織田信長;1534年5月12日〜1582年6月2日
安土桃山時代の武将。尾張国(愛知県)の人。信秀の次子。性剛勇果断、永禄3年(1560)今川義元を桶狭間に破って威名天下に鳴り、諸方を征略、天正元年(1573)足利義昭を追って幕府を滅ぼす。安土城を築き、天下統一の歩を進めたが、京都本能寺で明智光秀に襲われて自刃。

卓抜な戦略と独創性で天下統一を目指す

信長の父信秀は守護代織田氏の支流でしたが、実力で本家をのっとり、尾張に勢力を張りました。そのあとを継いだ信長が一躍有名になったのは桶狭間の合戦で今川義元を破ったからです。やがて三河の徳川家康と同盟を結び背後のおさえとした信長は美濃を平定し、足利義昭を奉じて近江の六角氏を討ち破り京都に入りました。

その後対抗勢力を次々と破り、着々と天下統一を進めていきました。その後、信長は安土城(安土町)を築き、本格的な畿内経営と西国方面への進出に備えました。中国地方攻略にむかうため、安土をたち京都の本能寺に陣したとき、部下の明智光秀に討たれ49歳の生涯を終 えました。

(以下、Yさんのコメント)

私は「織田信長」を推したいとおもいます。理由は、近代日本の遠い礎を築いたとおもいます。米国が不平等なりにも国家として認め、植民地化できなかったのも、「国家組織」「国民の教養」「伝統文化」等々が時代に間に合う形で確立されていたからだと思います。これらの事が可能となったのも「日本国」の統一を成し遂げ「社会組織・運営」の形を整えたからではないでしょうか。仕上げは「秀吉」と「家康」でしょうが!!!


 

政治家=リンカーン

Abraham Lincoln

特許法は、天才の火に利益という油を注ぐ

 

アブラハム・リンカーン; :1809年2月12日〜1865年4月15日
第16代アメリカ合衆国大統領( 在任1861.3.4〜1865.4.15 )。
1860年共和党の大統領候補に指名され当選。1863年1月1日、奴隷解放宣言を発布。同年年11月19日、ペンシルバニア州ゲティスバーグにおける演説での「人民の、人民による、人民のための政治」の言葉はあまりにも有名。
1865年4月14日、フォード劇場で観劇中、南部出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに後頭部を撃たれ、翌15日朝、その傷がもとで死亡。
合衆国歴代大統領中、特許を取得した唯一の大統領。
南北戦争後、全米の工業化、特許権強化に積極的につとめた。
彼の時代はアメリカの第1期プロパテント時代と位置づけられている。

特許を重視したリンカーン

 英国の植民地から独立した米国は、特許制度の重要性をよく認識していました。ジョージ・ワシントンが中心となって制定されたアメリカ合衆国憲法のなんと第1条第8項に特許を与える権利は議会にあることと規定しています。

 第16代大統領リンカーンは自らの発明家であっただけに、近代技術の戦略的価値を見抜いていました。南北戦争が始まると、リンカーンのもとに次々と発明家たちが押し寄せて、新型兵器のアイデアを持ち込みました。その中から、リンカーンは連発式ライフル銃、地雷、銃臼砲、鉄道砲、装甲艦、潜水艦、軍事観測気球などを大量に戦場に送り込みました。これらの武器により、北軍は一挙に優勢に転じました。

 南北戦争は60万人もの死者を出しましたが、これは米国の第2次大戦での死者の2倍です。近代兵器を駆使して、膨大な死傷者を出す近代戦の始まりは、リンカーンが始めたと言えるのではないでしょうか。

 南北戦争が終わると、リンカーンは全米の工業化に着手します。その原動力が特許権の保護強化でした。南北戦争が終わった1865年から大不況が襲った1930年までをアメリカでは「第一次プロパテント時代」と呼びます。この期間に、アメリカは英国を凌ぐ工業大国として躍進を遂げました。「特許法は、天才の火に利益という油を注ぐ」、商務省の玄関脇の大理石に刻まれたリンカーンの言葉です。その申し子とも言うべきなのが、エジソンです。

 1776年にイギリスから独立したアメリカは、1790年に特許法を制定し、建国の当初から特許制度によって産業を振興する施策をすすめました。奴隷開放戦争として知られる南北戦争は、工業圏の北部と農業圏の南部の経済戦争とも言われ、1865年の北軍勝利によってアメリカの工業化に弾みがつきました。南北戦争当時に大統領であったリンカーンは、自らが特許を取得するほど特許奨励による産業振興に力を入れたので、アメリカは19世紀半ばには特許の登録件数で世界一に躍り出ました。

 その後、19世紀末から今世紀初頭にかけて発明王として有名なエジソンの白熱電球や蓄音機、ベルの電話機、ライト兄弟の飛行機やGEの研究者達によるラジオなど現代の産業技術の基礎となる発明が相次ぎ、これらの新技術がアメリカを世界最大の工業国に押し上げる原動力となったのです。

 近代の特許制度は、新しい発明に権利を与え、発明者を保護することで発明意欲をかきたてます。そして、その発明により産業・経済の発展が促されるので、発明者と国民の双方に利益をもたらす画期的な制度と言われています。

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1859年 リンカーンがイリノイ州ジャクソンビルのイリノイ大学で行なった「発見と発明について」の講演より

=== そして、(アメリカの発見の)次に特許法がやってきました。
特許制度は1624年にイギリスで始まり、わが国(アメリカ)では憲法への採択とともに始まったのです。それまでは、誰もが他人の発明をすぐさま使ってよかった。それゆえ、発明家は彼の発明によってなんら特別、益するところがなかった。特許制度は、これを変えたのです。
新規で有用な事物の発見と製造において、一定期間、発明家に独占権を保障することで。そして、そのことによって、特許制度は、天才という火に利益の油を注いだのです。===

(原文)
Next came the Patent laws. These began in England in 1624; and, in this
country, with the adoption of our constitution. Before then [these?],
any man might instantly use what another had invented; so that the
inventor had no special advantage from his own invention. The patent
system changed this; secured to the inventor, for a limited time, the
exclusive use of his invention; and thereby added the fuel of interest
to the fire of genius, in the discovery and production of new and useful things
.

  from: The Collected Works of Abraham Lincoln
      http://www.hti.umich.edu/l/lincoln/


 

政治家=聖徳太子

和を以って貴しとなす

聖徳太子(しょうとくたいし);574年〜622年 
用明天皇の第二皇子で、母・穴穂部間人皇后が宮中の馬小屋の前に来たとき生まれ
たと伝えられ、厩戸皇子とよばれた。推古天皇の摂政として内政・外交に尽力し
た。604年、十七条憲法を制定し、607年、小野妹子を派遣して隋と国交を開
いた。また、仏教興隆につとめて、法隆寺、四天王時を建立。

 日本の古代史上に偉大な足跡を残した聖徳太子は、日本人にとってもっとも馴染みの深い人物であるとともに、広く崇敬の念を抱かせる先覚者であるといえましょう。太子は推古天皇の摂政として、新しい政治に取り組みつつ、遣隋使を派遣するなどして、外交面でも多大な成果を残しました。一方で学問にも熱心で、大陸の進んだ文化を積極的に摂取し、飛鳥文化の華を開かせました。特に、当時の先進的な学問であった仏教には深い理解を示し、みずから「三経義疏」を著したのに加え、数多くの寺院を建立したのです。そこには眩いばかりの飛鳥文化が実を結び、現在でも私たちの憧憬の的となっています。

 聖徳太子というと、まず「十七条の憲法」が思い浮かぶのではないでしょうか。太子が叔母である推古天皇の摂政になった頃、物部氏や蘇我氏による大氏族の争いが頻繁に起こりました。これが皇位継承問題と絡み合って、ついには崇峻(すしゅん)天皇暗殺という大逆事件を生むに至りました。崇峻天皇を殺したのは蘇我馬子ですが、聖徳太子は殺した方にも殺された方にも血の繋がりがありました。
 この血なまぐさい氏族の争いを見てきた太子が、憲法を制定するにあたって、第一条を「和を以って貴しとなす」とし、第十条、十四条、十五条と繰り返し“和”の精神を述べています。これは長い戦争と、それに続く敗戦という体験から生じた現在の日本国憲法が、その前文において、また第九条その他において、繰り返し世界平和を謳っているのと似ています。

 世界最初の成分憲法と言われるのがアメリカ憲法(1788年)です。その前文は聖徳太子の十七条の憲法に似ています。もちろん、その後に続く規定は、近代的に精密であり、十七条しかない太子の憲法とは違いますが、太子の憲法も大綱を示していますので、近代的な意味で憲法と言って差し支えないものです。「世界最初」と言われるアメリカ憲法の1200年前に、日本が憲法を持っていたことは驚くべきことです。

 そして、聖徳太子で最も注目すべきなのはその外交手腕です。当時、中国は絶大なる強国でした。そして“中華思想”が示す通り、まわりの国は野蛮な国であり、世界で唯一の中心は自分たちであり、自分達の皇帝だと思い込んでいた民族でした。
 しかし、いかに中国皇帝でも、まわりの国隅々まで権威が及ぶわけではありません。そのため、各国から人を選び、貢物をさせることで、その人物を国王と任命していました。これを「冊封(さくほう)体制」と言います。日本も卑弥呼の時代から、そうやって中国皇帝に貢物をして、日本を治める王であると認められていました。

 しかし、聖徳太子は鼻っ柱が強かったらしく、この屈辱から抜け出したいと思っていたようです。
 太子は、小野妹子を使いに、有名な国書を中国(隋)皇帝に送りました。
「日出ズル処ノ天子、日没スル処ノ天子に書を致ス。恙(つつが)ナヤ・・・」というものでした。これは、「日本の天子から、隋の天子に手紙を出します。そちらはお元気ですか?」とでも言うような内容で、中国皇帝にとって信じられないことに、対等の筆運びでした。中国皇帝にとって「天子」とは世界でたった一人、自分しかいないはずでしたのに。中国皇帝は激怒し、小野妹子に返事も持たせずに、帰らせました。
 しかし、太子はさらに「東ノ天皇、敬(つつし)ミテ西ノ皇帝ニ白(もう)ス」という国書を送ったのです。あくまでも対等の姿勢を崩していません。天皇は皇帝とは違いますが、あくまでも自主独立した「日本の皇帝」であるという感覚です。ここに、太子の鋭い外交感覚があります。

 当時の中国(隋)は、高句麗と交戦中であり、しかも国内の治安も乱れていました。つまり、聖徳太子は「ここで強気に出ても、中国には反撃する余裕はない」と見透かしたのです。事実、最初の国書を小野妹子が運んでから、11年後には隋が滅んでいます。
 聖徳太子の読みは当たり、中国皇帝から「(天皇という自称の仕方について)認めはしないが、そう呼びたいのならば勝手にしろ」程度の了承を取り付けてしまいます。太子の外交の勝利です。以降、日本は中国の冊封体制から抜け出し、独自の歴史を作ってゆくこととなります。

 太子の外交における気概、そして頭のキレ。現在の、中国や韓国、そして米国などに外交で負けに負けているの日本の政治家に比べて、いかに凄いかがわかります。

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以上、Webサイト「天才・聖徳太子」をもとにしました。


 

政治家=諸葛 孔明

(中国 三国志時代)

組織作りをはじめとする行政分野に才能を発揮

 

諸葛孔明(しょかつこうめい);181年9月28日〜234年
諸葛亮、字は孔明。中国の歴史「三国志」に登場する軍師。曹操・劉備・孫権が天位を争い多くの英雄たちが天下に名乗りを上げ、策謀と戦闘が渦巻く後漢末期。
その魏・呉・蜀が壮大なドラマを繰り広げた時代に、鬼をも欺く知略をもって大軍を打ち破る希代の名軍師として活躍したといわれている。
琅邪陽都の人で、劉備に仕え劉備から「三顧の礼」を受けて「天下三分の計」を説き、その戦略構想をもとに蜀漢建国を輔佐した。
「三国志」では、その人間像は秀れた軍師として、仁愛の丞相として、また篤い忠義の人として描かれ、永く人びとの敬愛を集め語りつがれてきた。

「三国志演義」などの文学作品には、巧みな兵略で敵を打ち破る痛快な逸話が多いのですが、正史「三国志」などの史実を踏まえてその足跡をたどると、「人間孔明」の真実の姿が見えてきます。

 孔明は「智謀」が優れていたわけではありません。優れていたとは思いますが、少なくとも「三国志演義」に書かれているような天才軍師ではありません。彼の優れている点はどこなのか、彼の凄さを述べてみます。

1 荊州失陥後の荊州名士社会の脆弱性を克服するため、益州名士社会との融合を図った点。
2 信賞必罰、屯田
3 公平無私、清貧
4 北伐を組織した軍事的才能
5 現実主義(漢に忠義であるとはいえません)

 孔明は本来君主向けな人物だったと思われます。謀士ではありません。彼本来の才能は組織作りをはじめとする行政分野に発揮されたと思われます。行政を侮ってはいけません。彼は当時の貴族を編成する術に長けていました。
 又、孔明は、がちがちの儒教主義者ではありません。彼は一応当時の荊州名士階級出身ながら、名士の枠を飛び出ています。その身分にとらわれない姿勢は素晴らしいと思います。
 実際の中国社会がこのあと貴族社会にますます傾斜する中、孔明はどちらかというと曹操のような既存秩序を破壊する立場にいるとさえ言えます。

 諸葛孔明は蜀にいながら、むしろ曹氏に近いところがあります。魏を奪った名士連中の集合体「晋」とは最後まで理論的に対立していると思われます。つまり曹操が非常の人、漢代の偉人といわれるがその曹操に実は一番近かったのが諸葛孔明なのです。

 以下、諸葛孔明の足跡を辿ってみます。

 西暦207年、劉備は孔明を登用しようと草庵を訪れたが会えませんでした。三度目の訪問でようやく対面します。劉備は孔明に曹操の専横を憎み、漢王朝の行く末を憂う心情を語り、目標に向かって何をすべきか教えを請います。

 それを聞いた孔明は、中原の曹操、江東の孫権には敵し得ない現状を説明し、荊州、益州を押さえて孫権と同盟し、機を見て荊州北部、長安方面を侵攻すれば天下を平定できるであろうという、いわゆる「天下三分の計」を献策しました。

 劉備は天下万民のために力を貸して欲しいと頼みます。孔明は始めその申し出を断りましたが、劉備の国を思う姿に心をうたれ、ついに出廬しました。

 208年7月、曹操は大挙して荊州に侵入します。折しも荊州の牧劉表が病死し、後を継いだ劉は曹操に降伏しました。この時孔明は劉備に劉を攻撃すれば荊州を支配できると進言しましたが、討つに忍びないと聞き入れられませんでした。

 夏口に着くと孔明は孫権に救援を求めたいと進言、単身孫権のもとに赴き、曹操との開戦を決断させました。孫権の将周瑜、黄蓋らが烏林の曹操陣地を焼き討ちすると、孔明は諸将に追撃戦を指示、赤壁の戦いの勝利に貢献しました。

 赤壁の戦いの後、劉備が荊州南部四郡を手に入れると、孔明は軍師中郎将に任命され、零陵、桂陽、長沙を治め、賦税を集めて軍事費としました。

 劉備が蜀に向かうと荊州を押さえとしてそのまま残りました。劉備が苦況に陥ると張飛、趙雲らと軍勢を率いて長江をさかのぼり、諸県を平定しながら援軍に向かいました。

 蜀が平定されると孔明は軍師将軍、左将軍府事に任命され、常に成都を守って食料と軍事力の充実に務めました。

 221年、曹丕が帝位についたことを理由に、孔明らは劉備に帝号を名乗るように勧めました。劉備が承知しないでいると光武帝の例をとって劉備を説得、ついに帝位につかせました。劉備が帝位に即いてからは丞相となり、尚書(詔勅を掌る)の事務を担当し、仮節(軍令を犯した者を死刑にできる)となりました。

 223年春、劉備は永安で重体におちいり、成都から孔明を呼びました。孔明は劉備に才能は曹丕の十倍あり、劉禅に才能がないなら取って代われとまで言われましたが、劉備の前で改めて忠誠を誓いました。

 劉備が逝去すると孔明は武郷侯に封じられ、また益州の牧に任命されました。そして孔明は後主劉禅の後見役として、蜀の軍政を一手に握るようになりました。

 劉備の死後、南中の諸郡が反乱を起こしました。が、孔明は君主の喪中であったので出陣を控え、呉に使者を派遣して同盟国とし、帝国の足固めを行いました。

 225年春、ついに南征を開始しました。孔明は柯郡平定に馬忠を派遣するとともに、自身は越郡へと進み、また李恢を南下させて益州郡へと向かわせました。

 越郡で蜂起していた高定を鎮圧した孔明はさらに南下して益州郡へ向かいました。その郡の豪族孟獲は漢民族、蛮族ともに人気があり、反乱の中心になっていました。

 孔明は出征にあたって、馬謖に遠征の作戦について質問しており、馬謖から武力で征服するだけでなく、南中の民族の心をつかみ、味方にするということを基本方針にするよう回答を得ていました。

 そこで孟獲の鎮定にあたっては、馬謖の提案に従って武力だけで屈服させようとせず、孟獲を7回捕虜にして7回釈放するなどしました。孟獲が7回目に捕虜になったときは孔明がまた釈放しようとするとその場を離れようとせず、心から孔明に降伏しました。

 225年秋、南中の地をことごとく平定し、孔明は帰還の途につきました。孔明は南征から帰ると軍隊を整備し、演習を行って北伐にそなえました。

 227年、諸軍を指揮して漢中に駐屯します。孔明は出陣するにあたって、劉禅に上疏しています。その文章は後年「出師の表」と言われ、これを読んで泣かない者は人ではないとまで言われる名文です。

 228年、孔明はおとりとして趙雲、芝を箕谷に進出させ、自身は山に向かいました。南安、天水、安定の三郡を降伏させ、関中を震動させましたたが、孔明の指名した指揮官、馬謖が街亭で大敗したため、結局西県の千余家を漢中に移住させるにとどまりました。

 漢中に帰った孔明は馬謖を処刑しました。また自分自身も丞相の位を返上し、三階級下げて右将軍とするなど、全軍に信賞必罰を示しました。

 魏が石亭において呉に破れ、関中の防備が手薄になっていると見た孔明は、229年1月、陳倉に進出しました。 魏は名将昭を置いて万全の守備体制を取っており、孔明は城を抜くことが出来ず退却しました。しかし追撃してきた魏軍を迎撃して撃破し、将の王双を斬りました。

 229年1月から3月にかけて、孔明は陳式を陰平郡、武都郡に派遣しました。魏の郭淮が撃退しようと出陣したものの、孔明が退路を断とうとしたため撤退し、両郡の攻略に成功しました。この功によって孔明は再び丞相となりました。

 231年3月、孔明は再び山に進出しました。魏では曹真が病気で指揮がとれないため、代わって司馬懿が迎撃することになり、初の直接対決になりました。
 山を包囲していた孔明は司馬懿が進撃して来るのを聞くと一部の兵に攻撃を続行させておいて、自身は上で司馬懿を迎撃しました。司馬懿が陣地を守って防御に専念したため、孔明は山まで後退しました。

 今度は司馬懿自身が主力を率いて進撃してきたので孔明は魏延、高翔、呉班らを指揮してこれを迎撃し、大勝利を納めました。しかし、兵糧補給にあたっていた李厳の虚言でやむなく退却することとなりました。孔明は追撃してきた魏軍を破り、張を戦死させました。

 234年3月、孔明は斜谷を抜け五丈原に進出し、屯田を行いながら長期間使用できる陣地を構築しました。
 迎撃にあたった司馬懿は対孔明戦の常とう手段である防戦一方でしたので、孔明は女性の服を送って挑発し、野戦に持ち込もうとしましたが、うまく立ちまわられて結局効果がありませんでした。

 今迄の北伐は兵糧切れで退却せざるを得ませんでしたが、今回は万全の補給体制を取ったので持久戦が可能でした。が、孔明の健康状態がそれを許しませんでした。

 同年、呉は魏を攻めたが中途半端に終わって退却しました。そのショックや几帳面な性格から仕事を人にまかせず、かなり細かいところまで自分で決裁していたため過労が重なり、234年9月、ついに死亡してしまいました。五十四歳でした。


 

指導者=坂本龍馬

明治維新の立役者、日本統一の演出者

 

坂本 龍馬(さかもと りょうま)183511月15日〜1867年11月15日
天保6年、高知に生まれる。幕末の志士。土佐藩の郷士で家は豪商だった。19歳のとき江戸に出て千葉周作の門に入って剣を学び、桂小五郎らと交わる。安政5年帰国して武市瑞山の勤皇同盟に加わり国事に奔走したが文久2年脱藩。江戸に出て海軍航海術を学ぶ。元治元年勝海舟の開設した神戸海軍操練所に入学したが、まもなく閉鎖されたので、薩摩の保護の下に亀山社中を創設。征長の役には桂小五郎・西郷隆盛と会って連合の密約を成立させる。慶応3年長崎で後藤象二郎と会見、社中の組織を改めて土佐藩所属とし、海援隊と改称した。また後藤を通じて山内豊信の名で大政奉還の建白書を幕府に提出させた。彼の活動は幕臣の憤激をかい、京都河原町近江屋で中岡慎太郎と会談中、京都見廻組の隊士に襲われ暗殺された。慶応3年、32歳で逝去。

勤皇・佐幕と対立抗争をくりかえしていた幕末に、「日本はひとつにまとまらなければならない」という大きな視野から、新しい時代を構想していたのが坂本龍馬。薩長連合(1866年)を成立させ、海援隊を組織し、世界情勢や貿易の必要性を唱えたが、同志中岡慎太郎とともに、1867年京都近江屋で暗殺されました。   

(以下、Oさんのコメント)   

僕はやはり、「坂本龍馬」を投票したいのですが、ジャンルは何になるでしょうか?「政治家」ではないし、「革命家」でもないし、「明治維新の立役者」あるいは「明治維新コンサルタント」とでも言うしかないような・・・?   

投票の理由:参勤交代による諸大名の弱体化や密告を基盤として、約300年にわたり長期安定政権を握っていた徳川幕府が、強力な武力を持つ西洋からの開港交渉(現在で言う外圧?)に抗しきれず、なし崩し的に開港して行く中、一方では、役人の賄賂・横領など、治安が乱れていた幕末において(現在の日本とそっくり?)、政権を朝廷に返上すべきであるとする「勤王運動(思想)」や「倒幕運動」が芽生えてきます。特に、当時の天皇・公卿は、西洋人嫌いであられましたし、当時の清国はイギリスに占領され、奴隷扱いを受けていたため、「日本も同じ目に遭う。」との危機感があったからです。   

当時の西洋人は、当初、日本も清国と同じように、武力による脅迫や恫喝により、簡単に占領できると考えていたようです。(ペリー来航そのものはもともと占領目的ではなく、捕鯨で日本近海まで来たのだが、燃料や食物の調達などが目的だった。)しかし、「日本は清と違う。」と思い始めたのは、武士の存在があったからでした。普段から、鋭利な刀を腰に差し、事が起これば、自分の命を顧みない武士道の精神が、彼らの思惑を困難なものにしました。現実、「生麦事件」というのが起こりましたね。彼らは考え方を変え、幕府と反幕府との武力対決を煽り、双方の弱体化を待つことにしました。幕府はフランス式軍制を導入し、薩摩藩、土佐藩などはイギリス式軍隊を模倣し、それぞれがピストル、大砲、軍艦などの武器を調達しました。   

当時の板垣退助は、土佐藩において、イギリス式軍隊を導入する指揮官を務めていました。そんな時代背景を前提として、土佐藩の一若者で長曾我部家の流れである郷士の子という低い身分(山内家の流れである上士から「斬り捨て御免」にあっても、文句言えなかった。)であった龍馬が、●犬猿の仲であった薩摩と長州の「薩長同盟」の盟約に貢献したり、●日本初の商社兼私設軍隊である「海援隊」を設立し、第二次長州征伐で高杉晋作らの長州藩と軍艦で活躍して幕府軍を負かしたり(この時、我が故郷の小倉城が落城。幕府側から休戦を申し入れた。)、●ほとんどの勤王志士達が武力による倒幕を望んでいたにもかかわらず、「船中八策」を起草して「大政奉還」を成功させ、無血開城させることに貢献したり、(これにより、多くの一般人が巻き添えにならずに済み、また幕府軍と反幕府軍の弱体化を防げた。)、●新政府案と最初の閣僚案を提案(自分の名前を挙げなかった。)したりしました。そして、事成ったとたん、中岡慎太郎とともに暗殺されました。慶応3年11月15日の夜のことでした。   

「竜馬がゆく」の原作者である司馬遼太郎の言葉を借りれば、「天に意思がある。としか、この若者の場合、おもえない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」   

というわけで、「坂本龍馬」を天才の一人として投票します!!


 

指導者=ペリクレス

perikles

(都市国家アテネ)

 

ペリクレス;紀元前462年ペリクレスのアテネ統治開始

紀元前480年のサラミスの海戦や翌年のプラテーアの戦いで、
アテネを中心とする古代ギリシャはペルシャを撃ち破った。
その結果、古代ギリシャの盟主となったアテネは、
全盛時代を迎えようとしていたわけだ。

 西暦462年、ペリクレスが全盛期の古代アテネの指導者となった。
上の画像は、ロンドンの大英博物館にあるペリクレスの像なんだ。

ペリクレスは、アテネとピレウスの港を結ぶ城壁を築き、
ペルシャ戦争で破壊されたアクロポリスを再建し、
更にアテネで民主的な改革を行って、
古代アテネの黄金時代を創り出したと言われている。

上記コメントは、「ヨーロッパ歴史風景」より転載させていただきました。


 

軍人=山本 五十六

戦略戦術の天才

 

山本 五十六;1884年4月4日〜1943年4月18日

「やってみせ 言って聞かせて させてみてほめてやらねば 人は動かじ」   これは山本五十六元帥の歌です。山本五十六は第二次世界大戦時、海軍大将として日本軍を指揮していました。戦艦大和に乗り、真珠湾攻撃作戦を企画立案・実行した英雄です。だがこの英雄も、もともと太平洋戦争には反対でした。彼の持論は「戦争は国力にて決まるものであり、開戦直前の日米の国力差は数倍以上であり、勝ち目が無いことは歴然である。それでもあえて一戦交えると言うのならば、初っ端に完膚無きまでアメリカ軍をたたいて敵の志気を無くし、それ以上の戦争を避けて早期に交渉に持ち込むしかない。」ということでした。大政翼賛会の傘下、一戦交えざるを得ない状況まで来ている日本を救う最後の手段は「あくまでも戦争はより有利な交渉を行うための手段に過ぎない。」というものであり、彼の卓越した見識と洞察力・知謀はアメリカ軍にとって脅威でした。アメリカ軍は彼をずっとマークし続け、1943年、最前の海軍基地を航空機にて視察中、敵に撃墜されソロモン上空にて戦死しました。

彼は開戦以前から「もはや艦隊戦の時代ではなく航空機の時代です。私に航空部隊を任せて下さい。」と主張したにも拘わらず、結果として艦隊司令長官として辞令を受けるという、「皮肉の人事」が歴史の分かれ道でした。当時の日本は山本元帥の考えに追いつけませんでした。もしも山本五十六が首相だったら、あのような悲劇は起こらなかったでしょう。歴史とは本当に皮肉なものです。

どうして天才はその時代に受け入れられないのでしょう。やはり時代が追いつけないからなのでしょうか。いつの時代もそうです。ソクラテスやゴッホなど、死後何年も経ってから評価される天才の如何に多いことでしょうか。結果として、その人物の評価は後生の歴史家たちが決めるものなのかもしれません。

「出る杭は打たれる」のことわざ通り、不遇な一生を終えた天才の数は数えきれません。人間とは何と愚かな生き物なのでしょうか。その天才の中の一人、山本五十六が歌い上げた歌は「人を動かすには、まず自分から手本を示し、相手によくわかるように説明をした上で、実際に体験をさせてみて、かつ良くできた場合には褒めてあげなければならない。」ということです。

人はなかなか自分の思う通りにはなりません。人を動かすにはそこまでしなければならないというのが何百万人を指揮する人物の「人心掌握術」なのでしょう。しかと心に刻まなければならない言葉です。 


 

軍人=ナポレオン・ボナパルト

Napoleon Bonaparte

天才的戦術家にして戦略家

ナポレオン;1769年8月15日〜1821年5月5日
フランスの皇帝。砲兵士官としてフランス革命に参加し、その後イタリア征討司令官としてオーストリア軍を破り、エジプト遠征。翌年、クーデターによって統領政府を樹立、自ら第一統領となり帝位につき帝政を開いた。つづいてヨーロッパ大陸征服を企てたが不成功。モスクワ遠征などにも失敗し、エルバ島に流される。後に脱出したて帝位に復したが、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナに流されて没。

(評価)

18世紀、ヨーロッパ社会は混迷を極めていました。13世紀から数百年にも亘ってヨーロッパの広大な領地を統治してきたオーストリアの名門ハプスブルグ家は、近代国家としての歩みを始め、より強い国際的地位を希望し、かつて世界帝国を築き上げた一族として、もう一度、かの栄光を夢見ていました。一方、ハプスブルグ家に対抗していたのがブルボン王朝フランスでした。フランスは、「太陽王」ルイ14世以来の度重なる戦争や宮廷の奢侈によって、国家財政は破綻寸前で、その国際的地位は大きく崩れようとしていました。そこで、ブルボン家はその財政難を乗り切り、ヨーロッパ一の名家の地位を守るためにハプスブルグ家と急接近しました。1770年、ブルボン家とハプスブルグ家は和解し、ハプスブルグ家は、フランス国王ルイ16世に15歳の皇女マリー・アントワネットを輿入れさせました。結婚が成立し、両家は世界帝国への道を歩むはずでした。

しかし、誤算がありました。ハプスブルグ家が近代国家への道を歩んでいたのに対し、ブルボン家は相変わらず絶対王政を維持し、旧体制(アンシャン・レジーム)の中にどっぷりと浸っていたのでした。しかし、民衆の中ではアンシャン・レジームに対する疑問と不満がありました。
また王妃マリー・アントワネットは国政に介入してオーストリアに有利な展開を要求したり、国民を軽蔑し贅沢な生活を享受したため、民衆の怒りを買っていました。

絶対王政に対する不満というガソリンに、市民革命という火花が近づきました。フランス革命の勃発です。実に4万人の王侯貴族の命が、ギロチンによって消えたのです。フランス革命の規模は明治維新の比ではありませんでした。王制は廃止され、共和制が樹立されました。革命を推進する過激なジャコバン派とパリ民衆の要求に従って、国王ルイ16世は処刑されました。王妃マリー・アントワネットも、38歳で断頭台の露と消えました。

しかし、この後フランスはジャコバン派による恐怖政治と祖国防衛戦争に突入します。この政治的混乱は、やがてブルジョアによる総裁政府により安定を見せましたが、より強力な指導者の登場が必要となりました。中世から近代への大きなうねりの中で、たぐいまれな軍才でのし上がり、血で血を洗う混沌とした時代の救世主と期待された男がいました。その名は、コルシカ島出身の軍事の天才ナポレオン・ボナパルトです。

後にフランス皇帝となるこの英雄は、自由と平等を結晶化させた民法を生み出す一方で、ヨーロッパ全土を一族の帝国にするという野望を抱き、ヨーロッパ統一戦争を重ねていきます。ナポレオンは軍事学上の天才、戦争を芸術の域にまで高めたとさえ言われている世界史上の不世出の英雄です。 彼は、今日の自由と民主主義の理念を達成させた「フランス革命」を結実させた人物としても広く知られています。まさに彼こそはフランス革命の申し子であり、革命打倒を目論む他の強大な王制諸国からフランスの祖国と自由と市民を防衛した英雄の中の英雄です。

そのフランス革命を明文化した「ナポレオン法典」があります。『後世私が評価されるとしたら、多くの戦勝でなくこの法典によるのだろう』ナポレオンは数奇に満ちた自分の生涯をこの一言で集約しました。「ナポレオン法典」はナポレオンの法政における偉大な成果です。フランス革命の成果を成文化したとも言われています。多くの血を流した末に勝ち取った人間の自由や基本的な権利。フランス革命の申し子といわれるナポレオン。彼の尽力で制定されたナポレオン法典は今なお、世界中の法律の中に生きています。

ナポレオンはコルシカ島の出身。フランスの士官学校を出て、若い頃から戦術の天才として注目されていました。1砲兵士官にしてついにフランス皇帝にまで上り詰めさせた、その要因は数々あります。その中のひとつに、緻密な作戦計画、その立案能力がありました。各指揮官へのナポレオンの指示書は詳細を極めました。イタリア遠征の成功で名を挙げ、その後 エジプト遠征でトルコを破り、この時『ロゼッタ石』を発見します。このロゼッタストーンの発見はエジプト学の緒を開きました。1799年、ブリュメールの反動で頭領となって軍事政権を樹立。その後終身頭領、やがて皇帝となってヨーロッパの大半を支配下に置く大帝国を築きました。

1805年トラファルガーの海戦でイギリスのネルソン提督に破れたものの、破竹の進撃でヨーロッパを席巻しました。そして同年、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア両帝国連合軍を破り、ハプスブルグ家とプロイセンを除く全てのドイツ諸侯がナポレオンの保護下に「ライン連邦」を結成しました。ここに「神聖ローマ帝国」は完全に終止符をうちました。

やがてナポレオンの運命に悪魔が訪れます。1812年遠征した冬のロシアで惨憺たる戦績となったのを境に運勢が降下。冬のロシアの気象条件と、大陸であるロシアの広さを彼ほどの人が甘く見ていたなんて信じられません。1814年退位に追い込まれて、地中海のエルバ島に流されました。フランスでは革命で処刑されたルイ16世の弟ルイ18世が即位してフランス王国が復活します。しかし、ルイ18世の復古的な政策は、革命で自由を知った国民にはとうてい支持できるものではありませんでした。それを憂えたナポレオンは流されてから10ヶ月後に、島から脱出。パリに戻り国民の熱狂的な歓迎を受けました。

しかし残念なことに、ナポレオンは知りませんでした。彼の大成功は、封建的束縛から開放されたい民衆の歓迎の上に成り立っていたことを。ナポレオンは、民衆に自由を教えましたが、与えませんでした。もしここでナポレオンが皇帝とならず、民主主義のもとで統領(大統領)として成功していたならば、アメリカが現在の繁栄を迎えていたかどうかはわかりません。その証拠に、ロシア遠征で失敗した後、ナポレオンは一気に落ちてゆくのです。

この時点でナポレオンの運気は既に尽きていました。政権復帰してからわずか100日後、ワーテルローの戦いで敗戦。これが世にいう「百日天下」です。フランス国民はヨーロッパとの戦争再開を望んでいなかったのですが、連合国が結束を固めたため、ナポレオンはフランス皇帝の位にとどまろうとする以上、戦争を再開せざるを得なかったのです。しかし、ワーテルローでイギリス・プロイセン連合軍に破れ、退位を余儀なくさせられました。今度はまず脱出不可能な大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナに流され、そこで一生を終えました。島で生まれて島で英雄の命は消えました。この世に神がつかわした役目を果たしたナポレオンの一生は、死に向かい歴史という記憶の世界の英雄になっていく、まるで放物線を描くかのように英雄の命の火は消えました。

ナポレオンに敵対したジャコバン派で外相のタレーランは、
「彼の天才は信じがたい程のものであった。1000年の間に見られた最も驚くべき生涯である。彼は私が目に得た最も非凡な人間であった」と言っています。

そして、ナポレオン自身が言いました。
Les hommes de genie sont des meteores destines a bruler pour eclairer leur siecle.
「天才は、己が世紀を照らして光り輝くべく運命づけられた流星である」 と。


=フランス皇帝ナポレオン1世が息子、ローマ王に書き残した遺訓=

「君主の目的は統治することだけではなく、教育・道徳・幸福を普及させることにある。眼を常に大衆に向けよ。欧州は理性によって心服させるべきであって、剣によって征服すべきものではない。おまえは、私が各地に開花させた新思想を継承せねばならない。欧州を永久に和解統一するという私の理想を、私がやむなく武力で行ったことを、おまえは国民の合意に基づいて行うのだ」

「もし、1812年に、私がロシアで勝利を収めていたら、平和は100年間保たれたに違いない。私は諸国民の難題を断ち切ったが、いまや、これを結び合わす時が来ている。諸国の君主をして理性の声に耳を傾けせしめよ。欧州には国際的憎悪を生む原因はもはやない。偏見は消え、共通の利益は拡大融合しつつある」


 

経営者=ビル・ゲイツ

その作品はマイクロソフト社

 

ビル・ゲイツ;1955年10月28日〜

日本人が若手のクリエイターにインタビューするときに最初に聞くのは、こういう質問です。『この作品であなたは何を訴えたかったのですか?』ところが、アメリカの若いクリエイターは、そんなことは絶対質問しません。『どうやってお金集めたの?』ファイナンスの話を、一番先に聞くのです。これが、彼らが世界のソフトビジネスを作りだしていく大きなエネルギーです。    

クリエイターは、お金の話をしてはいけないというのが日本人の感覚です。クリエイターは作品にもお金がかかるのだ、というのがアメリカ人の考え方です。大学での学問が実際の社会に生かされなかったら、学問としては認められません。これが世界の常識です。将来、起業家になりたいと思う人は、自分が持っているアイデア、閃きを現実の形にしていく力がないと失格です。

ビル・ゲイツが評価されるのは、ウィンドウズを作りだしたことではないのです。それをビジネスラインに乗せていく力があったことです。彼の天才性は、ビジネスに関するセンスです。 

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経営者=井深 大

 

 

 

井深 大(いぶか まさる);1908年4月11日〜1997年12月19日
 ソニーの創業者。栃木県に生まれ、1933年(昭和8年)に早稲田大学理工学部電
気工学科を卒業。在学中に「走るネオン」を発明し、パリ万国博覧会で優秀発明
賞を受賞。陸海軍と民間研究者からなる「戦時科学技術研究会」で海軍技術中尉
の盛田昭夫と出会う。1946年に、ソニーの前身である東京通信工業株式会社を設
立し、1950年同社社長に就任。盛田とともに世界のソニーを育てあげる。
(東京通信工業株式会社は、1958年に社名を現在のソニー株式会社に変更した) 
1986年勲一等旭日大綬賞。1997年、急性心不全で死去。亨年89歳だった。

 ソニーの創業者、井深 大は明治41年生まれ。戦前兵庫県に在住の中学生の頃に、短波帯の受信や無線に強い関心を持ち、3BBのコールサインで積極的に運用するなどアマチュア無線の黎明期の重鎮でした。早稲田大学に在学中数々の発明を残し、卒業後は、電機メーカーの技術部門で手腕を発揮、昭和20年東京通信研究所を設立。その後、戦時中に知り合った盛田昭夫と昭和21年、ソニー(株)の前身である東京通信工業(株)を設立しました。国内電機メーカーとしては初めてのテープレコーダーやトランジスター生産へ取り組み、初のトランジスタラジオの偉業は、カリスマ的経営者の側面をもった井深ならではの功績です。

ソニーは、天才的な技術者の井深大と、マーケッターの天才・盛田昭夫によりつくられ、クリエーターの大賀典雄により育てられました。

世界の「ソニー」を創った井深氏は、こう語っています。

◇ 大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。
  しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社のできないことをやり、
  技術の力で祖国復興に役立てよう。(会社設立趣意書より)

◇ わが社には組織はない。
  今日の組織は明日の組織でなく、明日の組織も明後日はどうなるかわからない。
  だから組織づくりといえば、毎日が組織づくりである。
  いや毎日、会社そのものをつくっている。

◇ 企業にとって重要なのは発明より革新なのだ。
  私は、実はたわいのない夢を大切にすることから、革新が生まれると思っている。

◇ ひと真似はするな。他人がやらないことをやれ。

◇ 常識と非常識がぶつかり合った時に、イノベーションが生まれることがあるんです。

◇ 一番のモットーは、他の人が既にやってしまったことはやらないこと。
                  
◇ 技術革新のネタは企業や大学でなく市場にある。
                  
◇ 自分が思ったことを通していくと、それがやがて真理になっていく。

◇ ソニーもホンダもたたかれて強くなった。

◇ 技術的な知識はなにもない。だからみんな、がむしゃらに取り組んだわけです。
  それが結果的によかった。

◇ アイディアが重要なのではない。
  一つのアイディアをどうやって、具体的にしていくかが重要だ。

◇ あらゆるいばらの道を切り開き、誰も手がけない新しい創造と取り組め。

◇ 立派な人間になるための一つの条件は自分が心から尊敬できる人を持つことだろう。

◇ 経営者が危機感にさらされてこそ、企業体質は強化される。

◇ いかに生活が便利に豊かになろうとも、信頼感の欠如した社会に、
  人間が平和で幸福に暮らしていけるはずがありません。


 

経営者=松下 幸之助

 

 
松下 幸之助;1894年11月27日〜1989年4月27日
明治15年 2月、和歌山の農家の三男として生まれる。雄小学校を4年で退学し奉公に出る。大正6年、大正期に電灯用の改良ソケット(二又ソケット)を試作し売り出すため町工場を創立。昭和8年、事業部制を初めて実施。松下の五精神(のちに七精神)を制定。門真地区に本店、工場を建設。昭和10年、個人から法人組織に改組、松下電器産業(株)になる。昭和20年、終戦の翌日、幹部社員を集め平和産業への復帰を通じて祖国の再建を呼びかける。昭和21年、PHP研究所創設、雑誌「PHP」創刊。昭和36年、松下幸之助会長に就任。昭和55年、松下政経塾を開塾。平成元年、94歳で逝去。

戦後の暗がりの中で大いなる輝きを放った

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松下幸之助は、本田宗一郎(ホンダ創業者)、稲盛和夫(京セラ創業者)とともに日本を代表する一流企業を築き上げ、また、独自の経営思想を創り上げたという意味で、まさに戦後という時代を代表する経営者だと思います。

幸之助は小学校を4年で中退。火鉢屋、自転車屋などに奉公した後、大阪電灯の工事担当者となりました。22歳で独立し、松下電器製作所を開設。ソケット、自転車ランプなどの製造で名を知られるようになりました。その後、電気コタツ、電気コンロなど、画期的な商品を送り出していきます。

しかし、昭和4年(1929)の秋、世界的な大恐慌の余波で、販売は半分以下に低下、大量の在庫を抱え込んでしまいます。同業他社が従業員を切り捨てていく中、幸之助は「従業員はひとりも減らさない」と断言。感激した社員は、休日を返上し、二ヶ月ですべての在庫を売り尽くしてしまいました。

その後の危機の折にも、自ら営業・販売の現場に立つなど、その人心掌握術は後世に語り継がれることとなります。幸之助の言った「熱意は、あたかも磁石が鉄粉を引き付けるように、周囲の状況を動かす」は、まさにその精神を表しています。

昭和55年(1980年)幸之助は、資財70億円を投じて「松下政経塾」を創設。政治や経済、教育問題など、世界に通ずる人材育成にのり出します。

「経営の神様」と讃えられる幸之助は、このように、一介の勤労者から身を起こして刻苦勉励、電気製品を大衆化させることを通じて自らの信念を実現しました。その偉大さは、はっきりした経営哲学を持ち、それを実現したことです。

自らジャパニーズ・ドリームの体現者となった立身出世物語とも重なって、それは戦後の暗がりの中で大いなる輝きを放ちました。

以下、松下語録より。

◇礼儀作法は人間関係を滑らかにする。社会生活の潤滑油である。

◇いかにすぐれた才能があっても、健康を損なってしまっては十分な仕事もできず、その才能もいかされないまま終わってしまいます。では健康であるために必要なことは何かというと栄養であるとか、休養とかいろいろあるが、特に大切なのは心の持ち方です。命をかけるというほどの熱意を持って仕事に打ち込んでいる人は少々忙しくても疲れもせず、病気もしないものです。

◇希望を失わないでやっていると自然と知恵も出てくる。精神が集中して、そこに色々な福音が生まれてくる

◇かつてない困難からは、かつてない革新が生まれ、かつてない革新からは、かつてない飛躍が生まれる。

◇力強さは使命感を持つところから生まれる。

◇何としても二階に上がりたい、どうしても二階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作りあげる。上がっても上がらなくてもと考えている人の頭からはハシゴは生まれない。

◇人間万事、世の中のすべては、天の摂理できまるのが90%、あとの10%だけが人間の成し得る限界だ。

◇絶えず素直な心になる心構えが大切でんな。

◇本当の思いやりとは、真にその人のためになるかどうかを考えて事をなすこと。だから、時には一見冷たく見られる態度や厳しい言葉が、非常な思いやりである場合もあるのである。

◇自分をほめてあげたいという心境になる日を持ちたい。失敗したところでやめるから失敗になりますのや。成功するまでやり抜いたら、失敗は失敗でなくなります。

◇成功の要諦は、成功するまで続けることである。

◇これまでの私の体験から言うと,現在与えられた,今の仕事に打ち込めないような心構えでは,どこの職場に変っても,決していい仕事はできない。

◇人の行うべき誰にでも与えるものはある。笑顔を与える、笑いを与える。求める活動から与える活動へ転換をはかりたい。

◇感謝の心を忘れてはならない。感謝の心があってはじめて、物を大切にする気持ちも、人に対する謙虚さも、生きる喜びも生まれてくる。

◇熱意は、あたかも磁石が鉄粉を引き付けるように、周囲の状況を動かす。どこかまだ足りないところがある、まだまだ道があるはずだと考え続ける人の日々は輝いている。

◇自分には、自分に与えられた道がある。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあれば、くだりもある。思案にあまる時もあろう。しかし、心を定め、希望を持って歩むならば、必ず道は開けてくる。深い喜びも、そこから生まれてくる。

◇素直な心を根底に持ってお互いが生きていくところから、人それぞれに願い求めている真のよりよき共同生活も逐次実現し、お互い一人ひとりの幸せも高められていく。

◇人間は千差万別の姿と心に生まれついています。従ってそれぞれの持つ使命も天分も、全部異なっているのではないかと考えられます。しかし現実の社会では、すべてを一つの型にはめよう、規制しよう、同じ道を歩ませようとするきらいが多分にあるように思われます。もちろんこうした考え方は、一面においては必要なのですが、世の中を全部そういう考え方、ものの見方で通そうとすることは、決して社会の進歩にはつながらないでしょう。ですから、人間がそれぞれに持っている特性というものをよく認識し、その特性を生かしていける共同生活を考え出さなければならないと思うのです。