いい仲間の会例会100回達成記念コンテンツ いい仲間が選ぶ世界の天才 着工:2003年12月6日 完成:2004年10月16日 |
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ピアニスト=フジ子・ヘミング Ingrid Fujiko v, Georgii-Hemming
神様にただ、「ああしてください」「こうしてください」と 神から恩恵を受けていることを、 若い時はうぬぼれもありましたが、世間を渡り、人の演奏を聴いて自分の実力がわかるようになりました。チャンスというものは、掴み取るだけで成功とは限りません。私はチャンスを失ってどん底を知り、回り道をしたおかげで、人間的に成長できたように思います。自分にふさわしい時期がくるまでひたすら待つということも、大切なことだと知りました。 母が亡くなって日本に帰国し、テレビ放映されたのがきっかけで、有名人になってしまいましたが、これは神様が導いてくださったんだといまでも信じています。 人生は諦めたら終わり。私は苦しみながらも希望を捨てませんでした。人生をクヨクヨして渡らないことです。 いつも希望をもって、自分がいつも誰かに必要とされていることを忘れないでください。 清流出版 |
ピアニスト=ウワディスワフ・シュピルマン Wladyslaw Szpilman (戦場のピアニスト)
シュピルマンは、2002年に制作されたポーランドとフランスの合作映画、 映画は見ていないのですが、原作の翻訳本を図書館から借りてきて、 ドイツ軍による占領下、収容所に送られることをなんとか免れ、 とはいえ、第2次世界大戦がやっと終焉を迎えようとしていた最中、 手元にそのシュピルマンのオリジナルアルバムがあります。 1曲目は、映画の冒頭でも演奏されているという 息子のクリストファー・シュピルマンが言っています。 福井さんの推薦の言葉 「戦場のピアニスト」はいけさんの映画の部屋で詳細を確認できます。 |
演奏家=ヨーヨー・マ Yo-Yo Ma 豊かな音楽性で聴き手を魅了する天才チェリスト
ヨーヨー・マは、パリ生まれの中国系アメリカ人で現代最高のチェリストです。 モダンタンゴの作曲家アストル・ピアソラの「リベル・タンゴ」を使ったサントリーのCMでの演奏で、一躍有名になりました。 ヨーヨー・マは、10代で高度なテクニックを身に付け、20代ですでに完成の域に達してしまったという無類の天才です。ピュアなクラシックでの活動に加え、ジャズやアフリカ音楽などと共演するフリーなスタンスが話題になっており、その後は、アルゼンチン・タンゴやブルーグラス、庭園設計家、ダンサー、建築家、歌舞伎役者ともコラボレーションするという破格のマルチぶりをみせてくれています。 彼は、1955年に台湾系中国人を両親にパリで生まれました。3歳からピアノを習い、姉の習っているヴァイオリンより「もっと大きな楽器がいい」とチェロを習います。 一度も聴いたことのない曲を演奏する姉に「音が少し違っている」と気を使いながら言う3歳児。その音楽的才能は、早くから突出していたようです。おまけに集中力も並はずれ、好奇心も強かったようです。一度聴くと、それを演奏できてしまう子供だったといいます。4才の頃には本格的にチェロの学習を開始しました。 はじめは父の個人レッスン。父は、毎日2小節ずつ学べば、2日で4小節、3日で6小節と覚え、簡単に曲が弾けるようになるという教育方法をわが子にも当てはめました。 最初の曲はバッハの無伴奏でした。 5歳の頃にはリサイタルを開催。6歳で、バッハの無伴奏チェロ組曲を発表会で弾きました。 1960年代に入り、一家はパリからニューヨークへ移住します。さらに同年、姉と共にバーンスタインらによるワシントンでのガラ・コンサートに出演。同コンサートは“アメリカン・ページェント”という番組で放送され、幼いヨーヨー・マの才能は世間に広く知られることとなりました。 チェロは、ヴァイオリンに比べその技術の進歩が遅れていたようで、クラシックにはチェロの曲自体は多くはありません。そのため、最近のヨーヨー・マは、バッハの無伴奏を様々な分野の人とコラボレートしたり、シルクロード・プロジェクトなど、クラシック音楽家の枠を越えての活動も盛んに行なっています。 バッハも天才ですが、それを弾きこなすヨーヨー・マも天才です! 豊かな音楽性と様々なジャンルに挑戦する意欲、聴き手の心に語りかけるような演奏は、関心するばかりです。彼の素晴らしさは、音楽性だけでなく、とどまっていないチャレンジ精神だと思います。バッハからピアソラ、映画音楽まで素晴らしい音で弾きこなす彼の音楽は、まさに革命・・。「クラシック」を堅苦しく考えず聴いて欲しいものです。 福井さんの推薦の言葉 |
ギタリスト=山下 和仁 言わずとしれた、まさに世界最高のクラシック・ギタリスト
ギターは小さなオーケストラだとベートーベンは言いましたが、今、日本のクラシック音楽界で若い才能の台頭が最も著しいのは、ギターでしょう。若手ギタリストたちが次々と目覚ましい活躍を繰り広げています。しかし、彼らの先駆けであり、パイオニアは、なんと言っても、山下和仁です。ヨーロッパの3大ギター・コンクールにおいて史上最年少で第1位となり、“神童"として大きな注目を集めました。優れた芸術の技術を持つ人、つまり名手のことをヴィルトゥオーゾと言いますが、山下は、今や世界的なヴィルトゥオーゾとして国際的な活躍を続けています。長崎在住ということもあって、東京での演奏機会がそれほど多くないのが東京の音楽ファンにとっては残念なのですが、1999年から2000年にかけて東京で開かれた3回にわたるリサイタル・シリーズでは、ますますの音楽的な深まりを示し、「世界のヤマシタ」の進化を実感させてくれました。 福井さんの推薦の言葉 山下和仁 公式ホームページはこちらから |
歌手=永遠のマリア・カラス
本日この瞬間よりマリア・カラスは私の中で永遠の天才となりました。 豆太郎の投稿より |
歌手=ノラ・ジョーンズ Norah Jones アメリカ社会に癒しを与える美貌のヴォーカリスト
気だくる薫るスモーキー&ハ二―・ヴォイス。キャロル・キング、ジョニー・ミッチェルの系譜を継ぐ、なごみ系シンガー・ソングライターが迷える都市ニューヨークより登場しました。現在、ニューヨーク市ブルックリンをベースに活動中の期待の大型新人女性歌手ノラ・ジョーンズです。癒しを求めるアメリカが待望する、アコースティックな天才女性ヴォーカリストです。 第45回グラミー賞の発表が2003年2月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われました。主要4部門である「レコード・オブ・ジ・イヤー」「アルバム・オブ・ジ・イヤー」「ソング・オブ・ジ・イヤー」「最優秀新人賞」全てを含む8部門にノミネートされ、その受賞数に注目が集まっていたノラ・ジョーンズですが、ノミネートされた8部門全てを受賞するという快挙を成し遂げました。 主要4部門独占は80年のクリストファー・クロス以来史上2人目。受賞数では99年のサンタナの9部門に次ぎ、83年のマイケル・ジャクソンとならぶ史上2位。1979年、ニューヨークシティ生まれ。母親が持っていた 数多くのLPレコードや、ラジオでオールディーズなどを聴いて育ちました。10代の頃からプロとしてピアノの弾き語りをしており、ソングライティングとアレンジも担当。 ジャズ、ソウル、カントリー、フォークポップをソフトにさりげなくミックスし、ジャンルの壁を取り除いたアルバムを発表しました。 グラミー賞ノミネート8部門を総なめにしたノラ・ジョーンズは、業界内の一部では、ひそかに「中島みゆき状態」とささやかれているとか。ジャズテイスト溢れる歌声が今、世界中から人気を集めています。オールディーズなどを聴いて育ったというその生い立ちから、古き良きアメリカ音楽の伝統を深く感じさせるものに仕上がってます。 ノラ・ジョーンズの歌は、躍動的というより、むしろ静かです。静かですが、身体と心をとても心地よく躍らせます。これが自然な音楽の力というものなのでしょう。大都会ニューヨークから聴こえてきたノラ・ジョーンズの歌。今、人々が欲しているのは、まさにこのような音楽なのではないでしょうか・・・・ 福井さんの推薦の言葉 |
歌手=美空ひばり 戦後最大の歴史的スーパースター
もはや言うまでもなく、戦後最大の歴史的スーパースターです。彼女の存在は昭和歌謡史にとてつもなく大きな足跡を残したと同時に、激動の時代を生き抜いた日本国民の数少ない心のよりどころでした。その功績はあまりにも大きいと思います。 1949年、敗戦の喧騒のさなか弱冠12歳の天才少女、美空ひばりは「河童ブギウギ」にて登場しました。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を下敷きとした、このデビュー曲は残念ながらヒットに繋がりませんでした。がしかし、同年公開された初主演映画『悲しき口笛』の同名テーマ曲が爆発的ヒットを記録し、一躍スターダムへとのし上がります。以降、ドメスティックな色合いの演歌歌謡楽曲を着実にヒットさせていく一方で、ジャズ/マンボ/ブルース/ロックンロール/ロカビリーなど、いわゆる洋楽テイストを大胆に導入し消化した、秀逸極まりない歌謡ナンバーを数多く世に残していきました。 また、1950年代半ばより、江利チエミ、雪村いづみと共に“三人娘”として活躍。以後、脈々と受け継がれるイメージ戦略先行型三人編成アイドル・チ ームの礎となっていったのは言うまでもないでしょう。1989年永眠。すべての日本国民が悲しみに暮れました。 美空ひばり公式ウェブサイトはこちらから |
歌手=ジョン・レノン
ビートルズ(Beatles)に2人の天才がいた。1人は、ポール・マッカートニー(PaulMcCartney)、もう1人は、ジョン・レノン(John Lennon)。この2人の天才は、互いに競いながら、名曲を連発していった。ジョン・レノンは、言わずとしれたビートルズのリーダー的メンバー。 1962年にビートルズとしてデビューし1970年に解散するまでに、ポール・マッカートニーとともに、ビートルズのほとんどの曲の作詞作曲を行い、多数のヒット曲を生み出した。活動初期よりビートルズの精神面を支えていたとされるジョン。メンバー中でもっとも早期に前衛性に目覚め、彼らの音楽を一気にシリアスな方向へ振り向かせたのもジョンである。 ビートルズ解散後は、ソロ・シンガー、または妻のオノ・ヨーコとともに活躍し、特にヒット曲『イマジン』に象徴されるように平和運動に傾倒し多くの若者に影響を与えた。 ジョンは、1969年のヨーコとの結婚後、自らの名前を"ジョン・ウィンストン・レノン"から、"ジョン・オノ・レノン"に改名し、新しい人間としての歩みをはじめた。 彼は、解散前から、ヨーコや仲間のミュージシャンとともに、"プラスティック・オノ・バンド"という即席グループを結成し、独自の音楽活動に励んでおり、『インスタント・カーマ』、『イマジン』、『真夜中をつっ走れ』(エルトン・ジョンと共演)などのヒット曲を生んだが、1975年にヨーコとの間にようやく授かった息子、ショーンの養育を自ら引き受けるために、"主夫(househusband)"を宣言し、事実上芸能界から引退した。しかし、1980年、ショーンが5歳になったのをきっかけに、再び、音楽界にカムバックし、ヨーコとともに、アルバム『ダブル・ファンタジー』を制作し、そこから、シングル『(ジャスト・ライク)スターティング・オヴァー』が大ヒットした。 しかし、その直後の12月8日、ジョン・レノンは、彼の熱狂的なファンであったといわれる精神異常者、マーク・デイヴィッド・チャップマンにより、ニュー・ヨークの路上で射殺された。 こういう略歴を持つジョン・レノン。ただ者ではない。自分の人生をそのまま歌い、人生観を歌に込めている。そのいくつかをピックアップする。 ●Mother ●Strawberry Fields Forever Row, row, row your boat.
Gently down the stream. Merrily, merrily, merrily, merrily. Life is
but a dream. ●God さいたま市中央区(旧・与野市)、さいたま新都心の中心施設である「さいたまスーパーアリーナ」内の4・5階に「ジョン・レノン・ミュージアム」がある。 福井さんの推薦の言葉 |
作曲家=モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart 音楽の神童
天才性 モーツァルトの天才性は、彼が全く音を自由自在に操ることができたこと、言い換えれば、彼が音楽それ自体であったことに求めることができます。 こうした「モーツァルトの遊び狂い方」という深遠なる命題について何ら意識せず、ただ気持ちよ〜く素敵なモーツァルトを聞き流す人が多いことは全くもって残念なことです。例えば、K.426の2台のピアノのためのハ短調フーガ、フーガの技法としてはバッハには遠く及ばないものの、複調や無調等、当時としては考えられないような前衛的な手法が用いられている恐ろしくなるような曲です。 福井さんの推薦の言葉 ある日、金に困ったモーツアルトの妻、コンスタンツェから、 彼の頭の中には、曲が完璧に出来上がっているのだ.....。 音楽の才能においては、決してモーツアルトにかなわない事を 映画「アマデウス」より モーツァルト研究家、久元祐子さんのページはこちらから |
作曲家=バッハ Johann Sebastian Bach 偉大なる音楽の父
「深遠で計り知れない謎に包まれている」というようなバッハに関する評価をいろいろなところで見かけますが、まさしくその通りだと、聞き込めば聞き込むほど納得できる言葉だと思います。そして何と言っても頭がいい。他の音楽家と比べても、これ程数学的で正確な音楽は他にないのではないでしょうか。アインシュタインと比べても決して引けを取らない天才だと認識しています。もしバッハが対位法やフーガ形式を生み出していなければ、巷に溢れている現代の音楽はまったく違った方向に向かっていたのではないでしょうか。 バッハは、ドイツのアイゼナッハで何代も続いた音楽の名家に生まれました。バッハは作曲家というよりも、オルガンやクラヴサンの名演奏家として知られていました。65歳でライプチヒで死ぬまで、あらゆる種類の音楽を作曲しました。同じ時代のヘンデルと共に、ヴィヴァルディをはじめとするバロック音楽のさまざまな様式を集成し完成させました。 バロック時代の音楽を集大成した偉大な作曲家だったばかりでなく、モーツァルトやベートーベンをはじめとするその後の作曲家たちに誠に大きな影響を与えました。バッハの音楽は死後、忘れられていましたが、死後百年を待たずしてモーツァルトやベートーベンに再評価されました。ベートーベンは、バッハを小川でなく大河であると表しました。そして、現代の作曲家のほとんどの人達がバッハの音楽の影響を受けています。200年を経た今日においても、広く愛されているのです。今、この時も世界のどこかで彼の音楽が演奏され、誰かが彼の音楽に耳を傾けているのは疑いありません。近年、バロック音楽のファンを増やすにとどまらず、ロックやジャズなど他のジャンルにまでバッハのファンが増えています。 たとえば、リバプールの偉大なミュージシャン「ビートルズ」は、バッハやバロック音楽の影響を色濃く受けており、20世紀のバッハだと形容されています。20世紀最高の作曲家とも絶賛されたあのレナード・バーンスタインは「ビートルズ・サウンドはバッハのフーガに匹敵する美しさをもっている」と言っています。 バッハの音楽は、自然な和音進行にのって流れる優雅な旋律と心地よいリズムがあり、癒しの音楽の原点ともいうべきものです。主な曲に、「主よ人の望みの喜びよ」「トッカータとフーガ」「ブランデンブルク協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「平均律クラヴィーア曲集」「無伴奏ヴァイオリンソナタ」「G線上のアリア 」などがあります。 バッハの音楽は創造性の泉だと思います。聴いていると心が持つ本来の美しく繊細な感覚を取り戻していくように感じます。バッハの曲はテーマのメロディーが次第に積み上がっていくにしたがって、とても美しいハーモニーが生まれ、まるで天使が心を洗いに来てくれたかのような感動を覚えます。 バッハやモーツアルトに代表されるような過去の偉大な作曲家は本当の天才であり、そういう人にしか作れない曲を作ったので、現代の作曲家がいくらこの人たちを真似しても、到底それには及ばないのでしょう。 バッハの音楽については多くの解釈方法があり、現在のところ本当のバッハ演奏を出来る人は恐らくいないでしょう。 バッハは、自分の音楽に対し客観的かつ冷徹に見つめることができました。それゆえ、古今無双の音楽家として永久にその名を残し、すべての音楽家は彼の音楽を聴き、あるいは見ることでバッハをいつの日か「音楽の父」と呼ぶようになったのです。 バッハの音楽における信望は、ブラームスの言葉「バッハを学べ、そこにすべてが見出される」に見事に表されています。 福井さんの推薦の言葉 バッハとモーツアルトの天才性について書かれた面白いサイトがあります。 ご一読下さい。「天才というもの」 |
作曲家=バート・バカラック Burt Bacharach 20世紀最高のヒットメーカー
ショッピング・モールを歩いていると、美しいメロディーが軽やかに聴こえてきて、私の胸はその心地よさに躍りました。それは、過ぎ去った日々、よく耳にしたあの懐かしい曲・・・カーペンターズが歌った「遥かなる影(Close To You)」でした。 カーペンターズは1970年代に花開き、絶対的な人気を誇ったリチャード・カーペンターと故カレン・カーペンターの兄妹デュオです。この「遥かなる影」は、1970年に発表されたカーペンターズのセカンドアルバムです。カーペンターズ初の全米ナンバーワン・ソングで、4週連続1位に輝きました。当時、弱冠19歳だったとは思えないほど肩の力を抜いた、カレン・カーペンターの哀愁漂う美しいアルト・ヴォイスと、ソフトでしっとりしたサウンドが印象的でした。 作曲者は、ロック登場以降の半世紀、アメリカのポップスの世界で、作曲家として常にそのトップに立ち続けていたバート・バカラック。彼は、ポップスや映画音楽を中心に活躍しているアメリカの作曲家です。この曲「遥かなる影」は、そのバート・バカラックと作詞者ハル・デイヴィッドの名コンビによって生まれました。 ポップス、すなわちポピュラー音楽とは、ヨーロッパのクラシックでも伝統音楽でもない大衆音楽のことをいい、20世紀の産物です。バート・バカラックは、そのポピュラー音楽史上、最も重要なソングライターのひとりです。彼は、1962年から作詞家ハル・デイヴィッドとコンビを組むようになり、彼らの作品は、ディオンヌ・ワーウィックをはじめ、 多くのアーティストによって発表されました。この曲は、いわゆるバカラック作品のリメイクということになりますが、もともとはディオンヌ・ワーウィックのアルバム用に書かれたもので、ディオンヌをはじめ、数々のアーティストがレコード化しています。 バカラックの曲は、60年代から80年代にヒットしたものも多いのですが、そのアメリカン・スタイルのおしゃれなメロディや、都会風で甘いパンチの効いたバカラック・サウンドが近年、再評価されています。94年、ニューヨークを皮切りに音楽ショー「Back to Bacharach And David」をスタートさせると、ますます音楽ファンやアーティスト達がバカラックの業績を讃えるようになり、世界中でバカラックブームとなりました。 バカラックはニューヨークの出身。ハイスクール時代にジャズに没頭し、大学ではクラシックの音楽理論と作曲を専攻。クラシックの天才作曲家ラヴェルの曲に出会い、ますます音楽の世界に引き入れられていきました。大学卒業後、ドイツの歌姫で大女優のマレーネ・ディートリッヒと出会い、そのツアーの指揮者として世界中を旅したりして、様々な経験を重ねました。57年にハル・デイヴィッドと知り合い、2人のコンビで様々な歌手に楽曲を提供。62年に黒人女性歌手のディオンヌ・ワーウィックと出会ってからは、3人のチームで数々の名曲をヒット・チャートに送り込みました。 さらに、ワーウィック以外に提供した楽曲や、映画音楽にも名曲がずらり。ビートルズの63年のカバーで知られる「ベイビー・イッツ・ユー」、65年の映画『007/カジノ・ロワイヤル』のテーマ曲「カジノ・ロワイヤル」、66年のイギリス映画『アルフィー』の主題歌で、この世のものとは思えないくらい美しい名曲「アルフィー」、70年の映画『明日に向かって撃て』の主題歌で、B.J.トーマスが歌った「雨にぬれても」、上述したカーペンターズのヒット曲「遥かなる影」、クリストファー・クロスが80年に歌った映画『ミスター・アーサー』の主題歌「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」などなど。どの曲も、まさにスタンダード・ナンバーと呼ぶにふさわしいメロディの美しさと、洗練されたアレンジが光っています。 バカラックをはじめとするポップ・ミュージシャンの作った音楽は、現在のロックを基点とするポップスとは一線を画しています。ビートルズが、ピンク・フロイドが、スタイルを変えながらもロックの変化(進化)を辿っていく間、バカラックは地道に自分の音楽を続けていきました。バカラックにとっても、ロックは無縁ではありません。ロック・ミュージシャンがバカラックの曲を歌うことも共演することもあります。 しかし、基本的にグループを組んで演奏する音楽、曲を作ることと演奏することが直結しているロックと、バカラックらのポップスは常に懸隔を保っていました。バカラックは自分の曲を自分で歌うこともありましたが、作曲したものを別の歌い手が歌うというのが基本でした。ロックのように、詞と曲と演奏、それにそれをパフォームすることが一体化して一つの行為であるのとは異なっています。だから、誰が歌っても成り立ったのです。 ロックはその後、柔らかみを出して、次第に音楽業界での主導権を握る位置へと移行しポピュラー音楽全般に使われることになりました。いずれにしても、ロックがもたらしたいい意味での音楽のグローバリゼーションの前段階、近代西洋型ポピュラー音楽の洗練された形が、バカラックにはあるのです。だからこそ、バカラックの音楽が登場して数十年という時を経た現在でも、いまだ色あせずに、彼の歌は歌い継がれているのです。今、彼の曲は、数多くのアーティストによってカバーされいますし、これからも更にそれは続いていくことでしょう。 ところで、余談ですが、時代を超えても変わらないことがあります。人との出会いです。天才はいます。でも、天才がたった一人でうろうろしていても、それはそれだけで終わってしまいます。何かあって、誰かがいて、その天才がかたちとして引き出されるのです。そうした出会いにあって、誰が、どこで、どう、というエピソードは必ずしも必要ではありません。たまたま、誰かと誰かが会ってしまうこと。それが大切なのです。それは、私たちみんなの周りで起きていることなのです。 バート・バカラックの経歴はこちらから |
画家=レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo Da Vinci 万能の天才 知恵は経験の娘である
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンスの代表的な画家です。画家であるばかりではなく、彫刻家、科学者、技術者、哲学者でもある「万能の天才」です。その才能は、工学、医学、天文学、流体力学、幾何学、音楽などに及んでいました。 イタリア型天才の代名詞として全世界にその名を知られるレオナルド・ダ・ヴィンチは、まさに生まれついての万能の天才として、この世に生きる人間が必要とする様々なものを集大成させる創造の才をいかんなく発揮しました。芸術家、エンジニアとして、また科学者、著述家として、レオナルド・ダ・ヴィンチは、「人間と世界との関係」をめぐるルネサンス思想を体現した人物でした。その思想の根底にあるのは、ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)の照応という考え方であり、知と技はそうした照応から生まれるものと信じられていました。今日では「インターフェイス」と呼ばれ、当時は「感覚」と呼ばれていた概念についての研究の出発点となるのは、このような考え方や信念だったのです。ヴィンチはどんな頭脳の持ち主だったのか、仮に生きておられれば、頭を解剖してみたいものです。 ドリアンさんのページでダ・ヴィンチの作品をご覧いただけます。 |
画家=ミケランジェロ・ヴォナローティ Michelangelo Buonarroti
ミケランジェロの言葉 1499年に現在のサン・ピエトロ大聖堂にある「ピエタ」という大理石の像を完成させ、名声をはくした。1501年には市庁からの委嘱で「ダビデ」の大理石像を作り、市庁の門前におかれ、自由を守る象徴とされた。 ヨハネ・パウロ二世の言葉 ルネッサンスの3巨匠を評した例え話 作家、塩野七生さんの言葉より
―「読者に」 より レオナルドやミケランジェロやティツィアーノの作品の前に立ったときは、これらルネサンスの天才たちを解説した研究書などを読む必要はない。ガイドの説明も、聴き流していればよい。それよりも、あなた自身が「年少の天才」にでもなったつもりで、「虚心平気」に彼らと向き合うのです。天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもあるのですよ。 ―「第四部 ヴェネツィアで考える」 より ドリアンさんのページでミケランジェロの作品をご覧いただけます。 |
画家=ラファエロ・サンティ Raphael,Santi
ルネサンスの三巨匠〜 「ラ・フォルナリーナ」 ドリアンさんのページでラファエロの作品をご覧いただけます。 |
印象派の天才画家=モネ 私は鳥が歌うように、絵を描きたい
モネは天才です。彼は広重を始めとする東洋の手法と精神を、西洋というフィルターで変換し、そしてそのいずれもを彼自身のものとしたのですから。 おそらく構図から入った彼は、広重を始めとする浮世絵の中から光を読み取りました。もちろん彼に影響を与えたのが浮世絵だけだとは言いません。 しかし浮世絵から得たものですら、これだけ独自に展開できるのなら、他も推して知るべしでしょう。 水仙シリーズにある、湖底と湖面を同じパースペクティブに置いた絵を見ていると、モネがたんに「光り輝く」ものばかりを光に求めていたわけではない、ということがよく分かります。広重が試みたように、モネもまた絵描きにとっての普遍的な光を追い求めていたのでしょう。 世界の天才「印象派の巨匠 モネ」 朝霞の港、オレンジ色の朝日が静かに昇るフランス・ル・アーブル港。水面にきらめく透明感あるオレンジの朝日、影絵のような船人、たゆたう小舟・・・新しい時代「印象派の歴史的幕開けとなった作品「印象・日の出」。「印象」とは作家が感じた印象のままに表現すること。モネの「印象・日の出」は、まさにその先駆的存在。 クロード・モネ 略歴(1840〜1926)
「モネ」は北斎に惹かれ、日本庭園に興味を持っていた。日本から取り寄せた桜・紅葉・牡丹・あやめなどの花々を庭に咲かせた。そして池を作り、睡蓮を育て、太鼓橋を架ける。自分の築いた庭園を何時間も眺めながらも光のうつりかわりを描く・・・ 睡蓮 睡蓮の池と日本の橋 睡蓮の連作 しかし、60歳頃から、徐々に視力が衰え始める。睡蓮の連作を描きはじめたてから約11年目、自然の光を愛した画家には致命傷ともいえる「白内障」という病魔。モネはあきらめなかった。色覚を失う直前の82歳の高齢にもかかわらず、白内障の手術を敢行。そしてなおも86歳の生涯を終わるまで、描きつづけた。「モネ」を駆り立てていたものは・・・。 才能のある庭師でもあった「モネ」はジヴェルニーの庭をこう呼んでいました。「私の最高傑作」古来芸術の源は偉大なる自然でした。 小さいながらも、時々刻々とその表情を変える「我が家の庭」は思索とひらめきと癒しを与えてくれます。 外川さんの推薦の言葉 |
激情の画家として知られるゴッホ。 ゴーギャンと暮らしたアルルの地で、激しい喧嘩のすえ自らの耳を切り取った話はあまりにも有名です。 彼の人生は悲運の連続でありながらも、その作品は力強くも繊細であり、多様な色彩で自由に表現されています。 モネら初期印象派の作風、新印象派の点描技法、さらには日本の浮世絵版画など様々な作風を吸収し確立された彼の作品は、20世紀美術に多大な影響を与えました。 (名言) 確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動せよ。{ゴッホ} 自分の行動に確信が持てれば申し分ないが、たとえ確信がなくても持っているように行動すれば、しだいに確信が生まれてくるものである。 後期印象派の画家として有名なゴッホは生前ほとんど認められませんでしたが、強烈なタッチの絵からは確信を持とうとする強い意志が読み取れます。 |
発明家=トーマス アルバ エジソン Thomas Alva Edison 現代工学の元祖
エジソンは、世界の天才発明家として有名です。でも、アメリカには、エジソンを上回る発明家はいくらでもいます。ところが、エジソンが飛び抜けて尊敬されています。なぜか?エジソンには、ビジネスセンスがあったからです。新しい発明をして、それをどんどん商品化してお金を生み出していく才能が、エジソンにはあったのです。ところが日本の教科書では、『天才発明家』『努力の人』だけで、エジソンのビジネスの話は全部消えてしまってます。 エジソンは学校では全然勉強ができなくて、落ちこぼれでした。電車の中で新聞の売り子を始め、いろんな職業を経験しています。そんな中で彼のビジネスセンスはどんどん磨かれていきました。学校の研究室に閉じこもっていると、ビジネスセンスは磨かれません。エジソンは、特許に関する膨大な裁判を起こしています。発明家は自分が作ったという名誉だけで満足するので、あまりに特許にかかわる裁判は起こさないと思っている人も多いでしょう。特許に関する裁判をあれだけ起こしたことは、エジソンがビジネスを真剣に考えていたという証拠です。 アメリカにはエジソンよりももっと天才的な発明家はたくさんいたのでしょうが、世の中のムーブメントを作ることは出来ませんでした。歴史に名前を残すことはできなかったのです。 エジソンの経歴はこちらから |
物理学者=アルバート アインシュタイン Albert Einstein 相対性理論 過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望を持つ。
昔は、四次元とか、タイムマシンとか、光速ロケットなどは、空想の物語で した。この空想とも思える物語を、アインシュタインは「特殊相対性理論」で見事に証明しました。その理論で、時間と空間を「時空」と呼ばれる四次元的な構造として一つに結び付けたのです。アインシュタインの理論によれば、未来へのタイムトラベルは可能といわれています。 アインシュタインの特殊相対性理論からいうと、光速で動く乗物の、つまり光の速さで動く乗物の中では時計はゆっくりと動きます。例えば、20歳の青年が光速で動く乗物に乗り込み、タイムトラベルしたとします。この青年は、ゆっくりとした時間の中で過ごしているので、20年後に無事に帰還したときには、地球上の時間は30年経っていたなんてことになるというのです。こういったことが原理的に起こるとアインシュタインはいっているのです。ただし、光速で動く乗物が出来るのはまだまだ先と思われます。 アインシュタインが特殊相対性理論を思いつくきっかけとなったのは、鏡で自分の顔を見ている時に、このまま光と同じ速さで飛んだらどうなるか、という疑問だったそうです。鏡で自分の顔を見るということは、「自分の顔に反射した光が鏡に当たる」、「鏡から反射してきた自分の顔を目がとらえる」という2段階を経ています。光は、秒速約30万キロメートルで伝わりますが、それでも無限の速さではありません。光が自分の顔と鏡の間を往復するときに、ゼロに近いわずかな時間ではありますが、やはり時間がかかっています。それでは、目の前に鏡をかざして、自分の顔に反射した光が鏡に向かって飛び出すのと同時に、自分も同じ速さで走り出したらどうなるのでしょうか。 顔から反射して鏡に向かっている光は光速で飛んでいます。それを追って自分も光速で走っています。すると、顔から鏡に向かっている光と自分は同じ速度で並んで走っていることになります。鏡を持っているのは自分ですから、鏡も光速で移動しています。それでは光はいつまでも鏡にたどりつけないのではないでしょうか。つまり、鏡には自分の顔は映らないことになりますが、鏡に顔はちゃんと映るのです。アインシュタインの答えは<光の速さは、止まっている人から見ても、動いている人から見ても変わらない>、つまり、光と同じ速さで飛んでいる人から見ても、光は秒速約30万キロメートルで遠ざかっていくのです。 そのかわり、アインシュタインは空間や時間をゆがませることにしました。具体的には、その1「モノは光速に近づくにつれて短くなる」、 その2「モノは光速に近づくにつれて重くなる」、その3「モノは光速に近づくにつれ(他者から見ると)時間の経つのが遅くなる」があります。 アインシュタインは、ドイツのウルムで生まれ、まもなくミュンヘンに移り 住みました。少年期のアインシュタインは、学校の成績は良かったのですが、 学校はきらいだったようで、一人で数学の勉強をしていたといわれます。大学を卒業したアインシュタインはスイス連邦特許局に職を得、仕事のかたわら自分の研究を進めます。そして26歳のときに、それまで「波」であると考えられていた光が、「粒子」であるとした論文を発表します。この「光量子論」で、アインシュタインはのちにノーベル賞を受賞することになります。同じ年、「光速度不変の原理」と「相対性の原理」からなる「特殊相対性理論」を発表、アインシュタインは新進気鋭の物理学者として一躍注目を集めることになります。 1916年、物理原理として完成度を高めた「一般相対性理論」を完成、ここで示された理論からの予測――「光も重力によって曲げられる」は、1919年の皆既日食の観測により見事に証明され、アインシュタインには世界中から「天才」の称号が冠せられたのです。 |
科学者=湯川 秀樹 ノーベル物理学賞
湯川秀樹が中間子を予言する以前、原子はプラス電気を持った原子核と、その回りをとりまいて運動する電子とで構成されているということは明らかになっていました。また原子核の構成要素に陽子があることもわかっていました。そして、陽子と質量がほぼ等しく電気的に中性な中性子も発見されていました。しかし、ここで生じた新たな問題に湯川秀樹は注目しました。それは陽子と中性子とを結合して安定な原子核をつくりあげている力(核力)の本性は何かという問題です。 福井さんの推薦の言葉 物理学者、湯川秀樹の天才論 |
物理学者=アイザック・ニュートン Issac Newton
幼少期、母親と離れて育ったニュートンは、暗く内省的で猜疑心の強い人格となりました。しかし数学的才能を次第に示し、20代前半で万有引力の法則、微積分法、光と色に関する理論を発見。その後、数学、力学、天文学を一つの体系にまとめた、通称『プリンキピア』によって、アリストテレスからデカルトと人類の築き上げた学問が一変しました。生涯孤独な彼が信じていたのは、「神の造った世界だから、神の声が数学の仕組みの中にあるはずだ」ということでした。 以下、博多の「アジアス九州」が、平成10年4月2日にフランスから1991年ノーベル物理学賞受賞者のドジャンヌ教授を招いて行った講演会からの抜粋です。 「現代のニュートン」福岡にきたる!! ドジャンヌ教授は、超電導から液晶、高分子に至る幅広い分野で新たな理論を提唱され、現代のニュートンと賞賛されている物理学の理論家である一方、フランスでは一般市民や若い世代との対話にも熱心な科学者です。当日は、「シャボン」を題材に歴史上の偉大な科学者のエピソードを交えて、現代社会における科学の意義等について講演をいただき、その後、会場を埋めた高校生たちと対話の時間を持っていただきました。 ●講演のテーマ 「泡、あぶく、はかなく脆い物体」(Bubbles,foams,and other fragile objects) ●講演の概略 ●イントロ部分のご紹介 ここで最初の疑問が生まれます。「何故、シャボン玉は色がついているんだろうか。」というものです。そして、この答えは非常に有名な人が答えています。アイザック・ニュートンです。皆さん、アイザック・ニュートンのことは聞いたことがあると思います。 ニュートンは、小さい頃イギリスの田舎に住んでいました。その時に、川で小さな水車を作って遊んでいたんですね、そして18歳になって望遠鏡を発明したんです。その望遠鏡で星を見ることができました。そして22歳〜25歳になると、ニュートンが関心を持ったのは機械の分野でした。そして、地球が太陽のまわりをどのように廻るか、軌道に関心を持ったわけです。天体に興味を持つことで数学にも興味を持ちました。 つまり、近代数学の親であるわけです。22歳から25歳の間に数学の親になり、そして近代物理学の父でもあったわけですね。科学の歴史においてひとつの原点であるのがニュートンであるわけです。 アイザック・ニュートンの経歴はこちらから |
数学者=フォン・ノイマン John von Neumann コンピュータの発案者
フォン・ノイマンは数学だけでなく、物理学、経済学、気象学、生物学、そしてとりわけコンピュータ科学に偉大な足跡を残すことになった。天才とは何だろうか。 フォン・ノイマンの経歴はこちらから |
化学者=福井 謙一 世界の化学史上、画期的な発見でノーベル化学賞を受賞
(業績) 「福井謙一先生について」の記事はこちらから |
技術者=嶋 正利 半導体革命の夜明け
今日の情報革命の第一幕は、70年代半ばの「半導体革命」でした。微少な電流を単純に増幅するだけのトランジスターが、複雑な機能を発揮できるICとなったのがきっかけで起きました。指先ほどのチップ1つで、0と1の組み合せによる計算が自在にでき、ICによる時計や電卓が登場しました。やがてIC電卓に記憶装置が付き、複雑な計算をこなせるようになりました。 以来20年、半導体の性能は18ヵ月で2倍の割合で向上してきたといわれます。これは半導体のトップ・メーカーであるインテルの創業者の一人、ゴードン・ムーアの唱えた「ムーアの法則」によるものです。これは、半導体は3年で4倍、9年で64倍という猛スピードで進化するというものです。ICがさらに高度化してLSIになり、本格的な計算ができるMPU(マイクロプロセッサ・ユニット)が誕生しす。MPUは、別名CPU(セントラルプロセッサ・ユニット)と呼ばれているパソコンの心臓部です。 世界初のMPUは、日本の天才技術者、嶋正利氏が、「ビジコム」という日本のメーカーで発想し、インテルに移籍して完成させました。「インテル入ってる 」の言葉にあるように今日のパソコンの基礎を作り出したのです。 島 正利氏の経歴はこちらから |
技術者=セイモア・クレイ Seymour Cray スーパー・コンピュータの生みの親
2001年10月3日、コンピュータ業界に衝撃が走りました。電子機器メーカの名門、日本電気(NEC)が世界最高速のスーパーコンピュータ「SX-6」を発表し、世界を震撼させました。 セイモア・クレイの経歴はこちらから |
技術者=カール・ベンツ Karl Benz
いや、
カール・ベンツの名言は「世界の名言」でご覧いただけます。 |
技術者=高柳 健次郎 テレビの生みの親 日本ビクターが世界に先駆けてテレビ画面に「イロハのイ」を画いた50年前。今日の世界の人々にとって最大の娯楽はテレビ放送でしょう。高柳博士が今日のテレビ放送の礎を築いた天才です。
(評価) 「10年20年先を考えて研究に取り組むこと」・・・高柳健次郎は東京高等工業学校電気科(現東京工業大学)を卒業するとき、恩師からそう言葉をかけられた。 写真は、1989年、勲一等瑞宝章を受章したときのもの |
スペインの天才的建築家=アントニ・ガウディ Antoni Gaudi 人を驚かす不思議な建築物を生み出した
壮大なる地球の歴史が生んだ大自然と、そして人類の叡知が刻み込まれた建造物を、未来へと引き継ぐ「世界遺産」。アクロポリス神殿、アンコールワット、あるいは、法隆寺など数々の歴史建造物と肩を並べて、主要な作品3つもが「世界遺産」にされている一人の天才建築家がいます。その名は、アントニ・ガウディ。 バルセロナ南西の商業都市レウスに銅板機具職の子として生まれたアントニ・ガウディ(1852-1926)は、16歳の時、バルセロナ県立建築専門学校予科に入学しました。当時、バルセロナは繊維などの新興産業によって大きく発展している最中でした。同時に多くのアナーキスト達が、スペインからの独立運動を繰り広げていました。アルバイトをしながら苦労して学校を卒業したガウディは、内装や装飾の仕事を手掛け始めます。 そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会います。 パリ万国博に出品された手袋店のショーケースを見てガウディの才能を見て取ったグエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛けます。グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、ガウディの建築にはいくつもグエルの名前が冠してあります。 (以下、Sさんのコメント) 世界の天才「アントニ・ガウディ」 スペイン・カタロニア地方港町バルセロナを舞台に活躍したアントニ・ガウディ(1852-1926)
(以下、Mさんのコメント) グエル公園のワレタイルやワニ、グエル邸の鉄門扉、カーサミラとかの渦巻状の階段・天井、未完で成長し続けるサグラダファミリア(待ち受けにしてます)どれもこれも、魂を揺さぶられます。 (以下、Fさんのコメント) アントニ・ガウディとは、すごい天才に目を付けましたね。手元の世界遺産の本を見ると、「グエル邸」「グエル公園」「カサ・ミラ」がユネスコの世界遺産に登録されています。比較的新しい建築物なのに世界遺産に登録されるとは・・・ガウディーがスペインの天才的建築家であったことの現れでしょう。 バルセロナの空に向かってどこまでも伸びてゆこうとする教会建築、サグラダ・ファミリア・・・ 貧乏と貧困を混同しない方がいい。 豆太郎 2002年3月5日 日本古来からの伝統と自然との融合、、、古き良きものを今日に受け継いでいきながら、自分の中からイメージするものとを調和させる。だから私も日々 自分の感覚は澄んでいたいと思ってます。以前山下さんが、ガウディの話をしていましたが、自然を捉える感覚が似ていたので感動しました。 2002年4月9日 |
文学者=三島 由紀夫 戦後文学の代表的作家
---小説「仮面の告白」について--- 三島由紀夫と聞いて、たいていの人は割腹、自衛隊、右翼などを思い浮かべるのではないでしょうか。三島由紀夫に対するそういう誤解が、この作家を正当に評価することを妨げていると思います。 私は、三島の政治思想にはほとんど興味がありません。三島の審美眼に天性の優れた感覚を感じるのです。彼が傾倒していたラディゲ同様、彼が天才であったこと、それも非常に早熟な天才であったことは確かです。そして、視線が美学的な色彩を帯びた時、その天性の才能はいっそう輝きを見せます。 幼い頃から感受性の鋭かった三島は、学習院中等科で文才を花開かせ、天才少年の名をほしいままにします。10代で処女作を出版。エリート官僚の家に生まれた三島は、東大法学部を経て大蔵省に入省しますが、執筆に専念すべくわずか9ヶ月で辞職し、小説「仮面の告白」の執筆に取りかかります。 三島は少年の日から、20歳で没したフランスの天才作家ラディゲ(Radiguet)を最も愛読しており、小説を書く上でもこの夭折(ようせつ)の作家をいちばんの目標としていました。「仮面の告白」は、ラディゲが16歳のときに書いた「肉体の悪魔」(原題は「魔に憑かれて」)に影響された最初の著作かもしれません。 この「仮面の告白」は、三島が自分の青春時代をモチーフとした自伝的小説です。三島は、この小説により一躍脚光を浴びました。旧来の私小説の手法とは異なり、告白を仮面を通して行いつつ、そのときの光景をみずから見ていたという誕生以来の生の奇跡をたどったこの作について、三島は「最初の(小説)」と述べていますが、これを書いたことによって、24歳の作者の裡に生まれたのは、退屈な日常生活の開始としてただ厭われた戦後の時代にも「何としてでも、生きなければならぬ」という思いでした。 「仮面の告白」は、戦後文学の代表的名作です。新潮文庫「仮面の告白」の解説で、福田恆存は、三島がこの作品に「自己の芸術家のゐるべき揺ぎなき岩盤を発見した」と述べ、「三島由紀夫の書いた作品のうちで最高の位置に位するものであるばかりでなく、戦後文学としても、のちのちに残る最上の収穫」と激賞しました。 三島由紀夫が現代の日本の作家に与えた影響は絶大で、多くの作家が三島由紀夫からの恩恵を受けています。「仮面の告白」は、三島由紀夫の描写でもあるかもしれませんが、ノンフイクションとフイクションが融合した小説でもあるのです。エロチシズムがテーマの作品ではありますが、実に人間的な作品でもあります。 世界で最も有名な日本の作家は、川端康成でも大江健三郎でもなく、また夏目漱石でも森鴎外でもなく、三島由紀夫ではないかと思われます。また、この本の文章は素晴らしいです。全てが詩的な文章で綴られています。こんな綺麗な文は普通の人では、まず書けないと思います。主人公の内面的変化の様子がとても鮮明に描かれていて、その一つ一つの詩的な表現を心ゆくまで堪能することができます。 三島由紀夫は若くしてデビューした天才であり、かつ、その作品はとてつもなく詩的な美文なので、無頼の文学青年と思えますが、猪瀬直樹の「ペルソナ 三島由紀夫伝」を読むと、一家は官僚の血筋で、秀才的な緻密な努力をする人だったようです。 三島は文章を美的に表現する達人であると共に、非常に理性的な人でもありました。直感的で詩的な表現と、理詰めに概念を分析していく執拗さが、不思議なバランスを保っています。右脳も左脳も輝いていたのだと思います。空想の赴くままにきらびやかな言葉で文章を組み立てているのかと思っていますと、表現されているものの論理の整合性はきちんと表されています。 総合すると、三島由紀夫はバランスの天才と言えます。おそらく彼は、出発地点で最終章までの全イメージとバランスのとれた構成とが脳内にあったように思えます。あとは、それを得意の美文で記述すれば、あの素晴らしい作品の完成をみるのだと思います。 |
文学者=ウイリアム・シェークスピア William Shakespeare
『ロミオとジュリエット』の大成功で、再びロンドン演劇界きっての花形作家となったウイリアム・シェークスピアは、次々と話題作を生み出していった。『リチャ−ド二世』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』。そして1601年『ハムレット』が完成。 「生きるか、死ぬか、それが問題だ」、「凶暴な運命の石と矢を耐え忍ぶのが尊いのか、 それとも苦難の荒海と戦う方が・・・」。「消えろ、消えろ、つかのまの燈火!人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。」−『マクベス』 世界も変わり始めていた。1603年、一つの時代が幕を閉じる。ヴァ−ジン・クイ−ン、エリザベス一世死去。イギリスを支え続けた大きな柱が倒れた。 「この地上に在る一切のものは、結局は溶け去って、いま消え失せた幻影と同様にあとには一片の浮雲も残しはしない。我々人間は、夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。・・・・」
1611年、最後の作品、『テンペスト』 自分自身の中にある苦しみや矛盾を正面から見つめ、人間とは何か、人生とは何かという謎を追い続けたウイリアム・シェ−クスピア。その優れた観察眼と深い洞察力によって人間の根源を見極めようとした彼の作品は、400年の時を越え、今尚生き生きと語り継がれています。それは私達誰もが自分の中にハムレットと同じ矛盾に満ちた存在を抱えているからに違いありません。 彼は今も問い続けているのです。 《知ってるつもり》1996年3月5日 放送 シェークスピアの代表作品と名文句集 ロミオとジュリエット ジュリエット→ロミオ ローレンス神父→ロミオ ハムレット 重臣ホレイショー ポローニアス→レイアーティーズ ギルデンスターン ローゼンクランツ ハムレット ハムレット→母ガートルード ハムレット→親友ホレイショー リア王=乱 リア 道化 から騒ぎ 恋は水物、時の物、キューピットの矢で 夏の夜の夢 ライサンダー→ハーミア 妖精パック 十二夜 道化師フェステ→侍女マライヤ オセロー 寝取られたオセロー テンペスト 1611年、最後の作品 プロスペローが人生について語る美しい台詞 この地上に在るー切のものは、結局は溶け去って、いま消え失せた幻影と同様に、あとには一片の浮雲も残りはしない。 マクベス 魔女 マクベス マクベス 緑の部屋「文学のページ」 |
詩人=金子 みすヾ 若き童謡詩人の中の巨星
(金子みすヾの詩から) --- 大漁 --- 朝焼小焼だ 大漁だ 浜は祭りの ようだけど
--- わたしと小鳥とすずと ---
---つもった雪---
(Iさんのコメント) Webサイト「金子みすずの世界」はこちらから |
哲学者=アリスト・テレス Aristoteles ITパラダイムの先駆者 友とは二つの肉体に宿れる一つの魂である アリストテレス
アリストテレスは世界最初のアナリスト アリストテレスは紀元前384年または385年に、イオニア系殖民都市スタゲイロスにイオニア系ギリシャ人の子として生まれました。当時、スタゲイロスは事実上マケドニアの支配下にあり、父はマケドニア王ピリポスの侍医を務めました。17歳の時、アテナイ(アテネ)にあるプラトンのアカデメイア(アカデミーの語源:学校)に入り、研究と教授を務めました。プラトンの死後、その甥のスペオシッポスが学頭になったのに嫌気がさし、37歳のときアテナイを去ります。以降49歳までの間はアリストテレス遍歴の時代と呼ばれています。 アリストテレスの著作は分析ツールだ アリストテレスの著作は多岐に渡っています。このうち「オルガノン」は論理学の本で、「カテゴリアイ(範疇論)」「命題論(言葉によるものごとの明示について)」「分析論前書」「分析論後書」「論拠集(トピカ)」「ソフィストの論法について」という著作で構成されています。このうち、前4冊が、ITエンジニアにとっては特に重要です。 アリスト・テレスの業績は「物理を発展させた人々」のサイトで確認できます。 |
写真家=荒木 経惟 (通称:アラーキー)
天才アラーキーこと荒木経惟には、彼のイメージから来る先入観から、 エロい写真家として認識する人もいるようです。 でもその感覚は間違っています。 写真家が芸術家とマス・イメージ製造者という2極の中にあって、 荒木経惟は、何者として存在いるのかを道化芝居のように演じています。 1971年、自分の新婚旅行を撮った写真集「センチメンタルな旅」によって、 鮮烈な衝撃を写真界に与えました。 その写真は、 それまでの写真が無意識のうちに排除してきた私的な眼差しを復権させるものでした。 大股びらきのヌードと日常的な生活光景が交錯するその写真的世界は、 単なるエロチシズムや風景という言葉でくくることはできません。 しばしば自分自身も写真の中に登場するという方法や、 「劇写」「エロリアリズム」「アラーキズム」など数々の造語による自分自身への名付けは、 単なるパフォーマンスを越えて、 荒木の写真の持つ虚実皮膜の世界を現実の中に打ち込むものとなっています。 さらに荒木が現代的であるのは、 そのような行為と言葉を「写真家」という存在に焦点を結ばせようとするところにあります。 旺盛な制作活動が絶えずスキャンダルに彩られた「現代の鬼才」です。 荒木経惟氏のページはこちらから |
漫画家=手塚 治虫 究極のスーパークリエーター
ここでは、天才を「人間と同等のもの、またはそれ以上のものを創り出す力がある人」と定義しましょう。いわば「究極のスーパークリエーター」です。そういう意味で、手塚治虫は天才です。単なる漫画家ではなく、今、いろいろな工場で動いているロボットの発想上の元祖でもあります。 手塚治虫という人は、今でこそ漫画の神様になってしまいましたが、その地位まで祭り上げられるには相当の苦心があったようです。天才肌なのは生まれつきのようですが、人間らしく思い悩んだり、嫉妬したり、いらいらして怒鳴り散らしたり・・・我々比較的若い世代が知る、穏やかな笑みを浮かべたベレー帽の紳士のイメージに至るまでにはいろいろな事があったようです。新しい漫画の手法として、映画のようなコマ割を編み出し、一世を風靡した青年時代。実力のある新人の群雄割拠に王者の気概を持って、高レベルの作品を量産した中年期。 しかしながら自分の作品のマンネリ化、そして時代の流れにより自分の画風が古ぼけてゆくことの認識します。それらが天才を自負する手塚治虫を次第に大きく苦しめていきます。しかし、手塚治虫が生み出した漫画は決して古びたりはしません。今持ってなお名作の輝きを放ち続けるのです。 鉄腕アトムやジャングル大帝、ブラックジャック、火の鳥などのメジャー作品から、無数の古風ゆかしき初期の作品たち、またはアダルトな風味のフースケ、人間ども集まれ、アンソロジーもののタイガーブックス、ライオンブックス、怪奇もののバンパイア、三つ目が通る、伝記物のブッダ、ジャンルは限りなく、無数にあり、これがたった一人の頭脳が生み出したものとはとても思えません。しかしそれは事実なのです。それこそが、手塚治虫こそ漫画の天才であると認めるゆえんです。 |
料理人=フランソワ・ヴァテール Francois Vatel 稀代の美食家ルイ14世をも唸らせた伝説の宮廷料理人
伝説となった男がいた。その才能と誇り高い生き方が後世まで語り継がれた実在の天才料理人フランソワ・ヴァテール。彼はルイ14世を招いて催された歴史に残る3日3晩の目も眩む大饗宴を芸術家として指揮し、王を感嘆させた。料理史において、ヴァテールはクレーム・シャンティイの考案者、またヴァテール風スープに名を残し、デュマの「三銃士」、日本では澁澤龍彦の「華やかな食物誌」に誇り高き芸術家として賞賛されている。『宮廷料理人ヴァテール』は彼の3日間の饗宴に隠された愛と陰謀と欲望を描いた一大スペクタクル・ドラマだ。フランス映画史上空前の40億円の制作費を投じ、2000年カンヌ国際映画祭オープニング作品として上映され世界を唸らせた。また21世紀初のアカデミー賞受賞を狙い2000年12月に全米での公開も決定した今世紀最後の話題作だ。 |
俳優=ジャン・ギャバン Jean Gabin 戦前戦後を通じてフランスを代表する俳優
貫録はアラン・ドロンの美男ぶり圧倒 戦前戦後を通じてフランスを代表する俳優ジャン・ギャバンが、1976年心臓麻痺で死去しました。74歳。
以上、Webサイト「芸能この日何の日」をもとにしました。 |
俳優=森繁 久彌 日本のエンタテイメント界の巨星
銀幕の天才 森繁久彌 森繁久彌は、兄の紹介で東京宝塚劇場(のちの東宝)に入り、日本劇場の舞台進行係を振り出しに、下積み劇団員として東宝新劇団、東宝劇団、古川緑波一座を渡り歩きます。東宝劇団では馬の脚を演らされるなど苦難の時代でしたが、緑波一座では古川緑波から一目を置かれました。 その後、森繁喜劇はペーソス味をもつようになり、1955年、淡島千景と共演した映画「夫婦善哉」が注目を集め、決定的な評価を得ることとなりました。 |
演出家=蜷川 幸雄 (Ninagawa Yukio) 当代一の演出家
「ニナガワは、現存する世界中の演劇界の魔術師たちの誰よりも
蜷川幸雄・・・日本一有名な演出家でしょう。最近ではシェイクスピアやチェーホフなど古典作品の演出が多いですねぇ。個人的には若いころに関わっていた清水邦夫さんと作っていた舞台を観たいのですが・・・映像は残ってないだろうなぁ。 著者の長谷部浩は、演劇評論家としてさまざまなジャンルの劇評を手がけています。この本は、1999年の「リチャード3世」の稽古場での取材から始まり、演出作品を軸にした2年半以上にわたるインタビューの集大成となっています。その多くは、稽古時だけではなく、開幕してからの話も追加しているといいます。さらに、この数年の間に再演されることがなかった戯曲「王女メディア」や「ロミオとジュリエット」なども取り上げられており、蜷川の仕事の全貌が見えます。 蜷川幸雄 公式ホームページはこちらから
蜷川幸雄は、シェイクスピアの全戯曲を演出する。 さいたま市中央区(旧・与野市)の「彩の国さいたま芸術劇場」において、13年がかりで全37作品を上演する。 彩の国さいたま芸術劇場の案内はこちらから。 |
映画監督=スティーブン・スピルバーグ Steven Spielberg うーんやっぱり娯楽映画の神様だね
●映画界を席巻し、批評家を敵にまわした 「スピルバーグなら面白くて当然」・・・大衆はこういった先入観を抱くようになり、今となってはスピルバーグの「面白い」という宣伝文句は神の声にもまさる。まさにスピルバーグという人間が「映画」そのものになりつつある。 はたして映画批評家たちはそんなスピルバーグを素直に尊敬できたか? スピルバーグの映画は本当によくできているし、沢山の映画の醍醐味が詰まった傑作ばかりで、怖くなるほどケチのつけどころがない。だが、チヤホヤされている者は、いつの時代も大勢敵をつくるもので、やはりスピルバーグは嫉妬心の強い批評家たちから毛嫌いされた。 硬派なヒューマンドラマ「カラーパープル」は高い支持を得ているのにも関わらず、アカデミー賞では惨敗。黒人たちは「これはスピルバーグに対する冒涜だ」とアカデミーに抗議し、社会問題にまで発展。同じように芸術映画愛好家を気取っている人たちも、スピルバーグの映画を何かとコケにしていたようにも思える。 スピルバーグをコケにすることで、自分が人よりも鑑賞眼がある人間だと見せつけようとする輩に攻撃された。だいたいスピルバーグの映画が芸術ではないという考えは、捨てるべきである。まず第一作の「激突!」からしてすでにスピルバーグの映像センスは神業であったのだ。娯楽と芸術は紙一重。「インディ・ジョーンズ」の冒険活劇を見て大興奮することは、映画芸術体験そのものである。スピルバーグを悪く言う連中は映画芸術を何もわかっちゃいない。 ●映像と音楽の魔術師、1993年更に脂が乗る スピルバーグの映像と音楽は、感動をぐんぐんと高揚させる力がある。「ジョーズ」でサメが接近する所でかぶせられる音楽の緊張感たるや、彼の尊敬するヒッチコックやトリュフォーでも出せなかった「今風」の映画的恐怖に色づけされた名演出である。 「ジュラシック・パーク」ではCGと映像の融合にも完全に成功しており、CGの可能性を認めさせたと同時に、デジタル音声の力も遺憾なく発揮させ、映画館内に観客の悲鳴を轟かせた。同作は、芸術としてだけでなく、科学的にも21世紀の映画の幕開けを告げた名作といえよう。 「E.T.」で、少年たちが自転車で空を飛ぶシーン、「未知との遭遇」で外宇宙の異星人たちとコンタクトを取るシーン、夢のある映像、計り知れない創造力に裏打ちされた映像に、観客たちはただただ感動するばかりである。彼の映画は、我々を日常世界から、全くの架空の別世界へといざなう。だからこそ本当に怖く、本当に優しく、本当に心に訴えかける。映像から、ストーリーから、音楽から、スピルバーグの演出は確かであり、我々は彼の思いのままに陶酔させられる。こういう魔力を持つ監督は、世界中を見ても、スピルバーグ唯一人しかいない。 スティーヴン・スピルバーグ作品集はこちらから |
映画監督=黒澤 明 Kurosawa Akira スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスにも影響を与え、 天皇とも呼ばれた完全主義の映画監督。
(右の写真)
追悼 黒澤明 〜巨人黒澤明逝く〜 より転載
では我々はどうしたらいいのか。どのように自分が身にまとっているニセの衣服を脱ぎすてればいいのか?その一番良い方法は、本物に触れる事であろう。本物の感触を味わい、本物とニセモノを嗅ぎ分ける嗅覚をもつことだ。 そんなことを考えていたら、このニセモノばかりの世の中で、数少ない本物の男がこの世を去った。その人物の名は、あの映画監督、黒澤明。88歳の大往生であった。 私自身、非常に影響を受けた人物だけに、大きなショックに見舞われた。世界中が、彼の死に弔意を示した。 いち早くコメントを発表したのは、スティーブン・スピルバーグだった。黒澤を師とも父も尊敬するスピルバーグは、黒澤死去の感想を聞かれ、沈痛な表情で、サッド、サッド(悲しい)、と二度繰り返した。 彼にとって、黒澤は、ただの異国の映画監督ではない。黒澤の横にいる時の彼は、まるでおっかない父の前にいる少年のようだった。もちろんスピルバーグ自身、黒澤に映画の手法を教わっているわけではない。しかしおそらく世界の誰よりも黒澤の作品に多く触れ、深く研究し、その黒澤のやり方を自分の作品に取り入れているのが彼である。だからこそスピルバーグにとって、黒澤は、映画の本質を教わった師であり、偉大な映画の父とも言える特別の存在なである。 スピルバーグは、新しい映画を撮る時には必ず、黒澤の作品を何度も見て、自分の気持ちを極限まで高めてから始めると語っている。彼にとってみれば、何度となく、見ている作品だから、目を瞑っても、様々なカットが出てくるくらいなはずだ。しかしそれでもその作品に投影されている黒澤という芸術家の気をもらっていたのである。 人間というものは、不思議なものである。毎日顔を合わせているのに、心が通い合わない関係というものがあるのに、黒澤とスピルバーグのように、生涯にほんの数度しか会わなくても、理解し会える関係もあるのだ。おそらくスピルバーグの人生の目標は、黒澤の築いた映画の伝統を引き継いでさらに、もっと高い次元に映画芸術を引き上げることにあるはずだ。 そのためかどうかは知らないが、スピルバーグには、黒澤にない商才という才能があるような気がする。それは芸術的な面では大したことのない「ジェラシック・パーク」のような作品でも、とりあえず撮って、次回作の糧にするということだ。おそらく現在スピルバーグにとって、本当に撮りたい作品というものは、自分のアイデンティティーに絡んだような「シンドラーのリスト」のような作品のはずだ。 その点、黒澤は、自分で納得できない作品は、一切撮らないという非妥協的な真の芸術家である。例えば、1964年の東京オリンピックの記録映画は、その制作費が余りに安いこともあって、監督を引き受けなかった。また日米海戦を描いた日米合作の超大作「トラ、トラ、トラ」でも監督を途中で降りてしまった。スピルバーグは、そんな自分とは違うタイプの巨匠黒澤明を、心の底から敬愛しているのである。彼は黒澤のことを「映画の世界のシュークスピア、永遠の古典」と最大級の賛辞で称えた。 要するに黒澤の作品が時代という壁を越えて永遠に残る真の芸術であることを認めているのである。この世に永遠に残り得る本物なものなど、そんなにあるものではない。
〜黒澤明監督・お別れの會〜 より転載 当初ハリウッドの著名監督の参列が噂されていたが、結局マスコミによる先走った噂で終わった。しかし3000通が寄せられた弔電のうち100通は海外からで、その中には参列が噂された中の一人『スター・ウォーズ』の監督で『影武者』の海外版のプロデュースを担当したジョージ・ルーカスからの弔電があり、披露された。その中でルーカスは「黒澤明監督の死去を知り深い悲しみにくれています。世界は豊かな宝物をなくしてしまいました。映画作家として、黒澤監督は真の天才であり、驚嘆に値する力強い作品を残しました。彼は本当の意味での芸術の達人でした」と師である黒澤監督へ賛辞と別れの言葉を述べた。 「黒澤 明の世界」はこちらから |
映画監督=宮崎 駿 Miyazaki Hayao オレは一世一代の美形を描いているんだ〜(宮崎駿)
切通 理作著 ちくま新書「宮崎駿の"世界"」の書評より 今の日本社会に、最も大きな影響を与えている映画監督は誰か? この本は、宮崎駿の映像作品を子細に分析すると同時に、膨大な関係資料から本人のインタビューや関係者の証言を集め、宮崎作品の魅力の源を徹底的に探った意欲的な評論である。 ふくちゃんの推薦文 宮崎駿監督はスピルバーグ監督を遥かに超えた映画監督だとも言われています。世界最高のアニメーション監督と言っても過言ではありません。今やスピールバーグと並ぶと言われるディズニーの監督(トイ・ストーリー等の監督)ジョン・ラセターも宮崎駿の大ファンで、師と仰いでいるそうです。ディズニーの制作現場にトトロの人形がよく見られ、みんなファンだといいます。ディズニーアニメーションも、宮崎アニメーションの影響を受けている場面も良く見受けられるそうです。宮崎アニメは、どの作品にも凡人には創造できないスケールの大きな世界観、感動に満ち溢れた夢のあるストーリーを提供してくれます。 宮崎駿ファンが待ちに待った最新作『千と千尋の神隠し』が2001年7月20日に全国公開されました。公会当日、日比谷スカラ座の初日は午前5時時点で2000人超が行列を作るという、あの『もののけ姫』以上の盛況ぶりとなったそうです。『千と千尋の神隠し』は、『もののけ姫』で世界中に注目された巨匠・宮崎駿監督の待望の大作アニメ。宮崎駿の清冽な魂が、ひとりの少女の孤独な世界をゆさぶります。 ■ 主な監督作品 ■ 受賞 ●『風の谷のナウシカ』からの言葉 ●『天空の城ラピュタ』ゴンドアの谷にある歌 ●『もののけ姫』のCMにも使われた有名な言葉 ●宮崎監督自身の名言 宮崎駿監督が主催する「スタジオジブリ」のホームページはこちらから |
政治家=織田信長 戦国の風雲児
卓抜な戦略と独創性で天下統一を目指す 信長の父信秀は守護代織田氏の支流でしたが、実力で本家をのっとり、尾張に勢力を張りました。そのあとを継いだ信長が一躍有名になったのは桶狭間の合戦で今川義元を破ったからです。やがて三河の徳川家康と同盟を結び背後のおさえとした信長は美濃を平定し、足利義昭を奉じて近江の六角氏を討ち破り京都に入りました。 その後対抗勢力を次々と破り、着々と天下統一を進めていきました。その後、信長は安土城(安土町)を築き、本格的な畿内経営と西国方面への進出に備えました。中国地方攻略にむかうため、安土をたち京都の本能寺に陣したとき、部下の明智光秀に討たれ49歳の生涯を終 えました。 (以下、Yさんのコメント) 私は「織田信長」を推したいとおもいます。理由は、近代日本の遠い礎を築いたとおもいます。米国が不平等なりにも国家として認め、植民地化できなかったのも、「国家組織」「国民の教養」「伝統文化」等々が時代に間に合う形で確立されていたからだと思います。これらの事が可能となったのも「日本国」の統一を成し遂げ「社会組織・運営」の形を整えたからではないでしょうか。仕上げは「秀吉」と「家康」でしょうが!!! |
政治家=リンカーン Abraham Lincoln 特許法は、天才の火に利益という油を注ぐ
特許を重視したリンカーン 英国の植民地から独立した米国は、特許制度の重要性をよく認識していました。ジョージ・ワシントンが中心となって制定されたアメリカ合衆国憲法のなんと第1条第8項に特許を与える権利は議会にあることと規定しています。 |
政治家=聖徳太子 和を以って貴しとなす
日本の古代史上に偉大な足跡を残した聖徳太子は、日本人にとってもっとも馴染みの深い人物であるとともに、広く崇敬の念を抱かせる先覚者であるといえましょう。太子は推古天皇の摂政として、新しい政治に取り組みつつ、遣隋使を派遣するなどして、外交面でも多大な成果を残しました。一方で学問にも熱心で、大陸の進んだ文化を積極的に摂取し、飛鳥文化の華を開かせました。特に、当時の先進的な学問であった仏教には深い理解を示し、みずから「三経義疏」を著したのに加え、数多くの寺院を建立したのです。そこには眩いばかりの飛鳥文化が実を結び、現在でも私たちの憧憬の的となっています。 |
政治家=諸葛 孔明 (中国 三国志時代) 組織作りをはじめとする行政分野に才能を発揮
「三国志演義」などの文学作品には、巧みな兵略で敵を打ち破る痛快な逸話が多いのですが、正史「三国志」などの史実を踏まえてその足跡をたどると、「人間孔明」の真実の姿が見えてきます。 |
指導者=坂本龍馬 明治維新の立役者、日本統一の演出者
勤皇・佐幕と対立抗争をくりかえしていた幕末に、「日本はひとつにまとまらなければならない」という大きな視野から、新しい時代を構想していたのが坂本龍馬。薩長連合(1866年)を成立させ、海援隊を組織し、世界情勢や貿易の必要性を唱えたが、同志中岡慎太郎とともに、1867年京都近江屋で暗殺されました。 (以下、Oさんのコメント) 僕はやはり、「坂本龍馬」を投票したいのですが、ジャンルは何になるでしょうか?「政治家」ではないし、「革命家」でもないし、「明治維新の立役者」あるいは「明治維新コンサルタント」とでも言うしかないような・・・? 投票の理由:参勤交代による諸大名の弱体化や密告を基盤として、約300年にわたり長期安定政権を握っていた徳川幕府が、強力な武力を持つ西洋からの開港交渉(現在で言う外圧?)に抗しきれず、なし崩し的に開港して行く中、一方では、役人の賄賂・横領など、治安が乱れていた幕末において(現在の日本とそっくり?)、政権を朝廷に返上すべきであるとする「勤王運動(思想)」や「倒幕運動」が芽生えてきます。特に、当時の天皇・公卿は、西洋人嫌いであられましたし、当時の清国はイギリスに占領され、奴隷扱いを受けていたため、「日本も同じ目に遭う。」との危機感があったからです。 当時の西洋人は、当初、日本も清国と同じように、武力による脅迫や恫喝により、簡単に占領できると考えていたようです。(ペリー来航そのものはもともと占領目的ではなく、捕鯨で日本近海まで来たのだが、燃料や食物の調達などが目的だった。)しかし、「日本は清と違う。」と思い始めたのは、武士の存在があったからでした。普段から、鋭利な刀を腰に差し、事が起これば、自分の命を顧みない武士道の精神が、彼らの思惑を困難なものにしました。現実、「生麦事件」というのが起こりましたね。彼らは考え方を変え、幕府と反幕府との武力対決を煽り、双方の弱体化を待つことにしました。幕府はフランス式軍制を導入し、薩摩藩、土佐藩などはイギリス式軍隊を模倣し、それぞれがピストル、大砲、軍艦などの武器を調達しました。 当時の板垣退助は、土佐藩において、イギリス式軍隊を導入する指揮官を務めていました。そんな時代背景を前提として、土佐藩の一若者で長曾我部家の流れである郷士の子という低い身分(山内家の流れである上士から「斬り捨て御免」にあっても、文句言えなかった。)であった龍馬が、●犬猿の仲であった薩摩と長州の「薩長同盟」の盟約に貢献したり、●日本初の商社兼私設軍隊である「海援隊」を設立し、第二次長州征伐で高杉晋作らの長州藩と軍艦で活躍して幕府軍を負かしたり(この時、我が故郷の小倉城が落城。幕府側から休戦を申し入れた。)、●ほとんどの勤王志士達が武力による倒幕を望んでいたにもかかわらず、「船中八策」を起草して「大政奉還」を成功させ、無血開城させることに貢献したり、(これにより、多くの一般人が巻き添えにならずに済み、また幕府軍と反幕府軍の弱体化を防げた。)、●新政府案と最初の閣僚案を提案(自分の名前を挙げなかった。)したりしました。そして、事成ったとたん、中岡慎太郎とともに暗殺されました。慶応3年11月15日の夜のことでした。 「竜馬がゆく」の原作者である司馬遼太郎の言葉を借りれば、「天に意思がある。としか、この若者の場合、おもえない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」 というわけで、「坂本龍馬」を天才の一人として投票します!! |
指導者=ペリクレス perikles (都市国家アテネ)
紀元前480年のサラミスの海戦や翌年のプラテーアの戦いで、 上記コメントは、「ヨーロッパ歴史風景」より転載させていただきました。 |
軍人=山本 五十六 戦略戦術の天才
「やってみせ 言って聞かせて させてみてほめてやらねば 人は動かじ」 これは山本五十六元帥の歌です。山本五十六は第二次世界大戦時、海軍大将として日本軍を指揮していました。戦艦大和に乗り、真珠湾攻撃作戦を企画立案・実行した英雄です。だがこの英雄も、もともと太平洋戦争には反対でした。彼の持論は「戦争は国力にて決まるものであり、開戦直前の日米の国力差は数倍以上であり、勝ち目が無いことは歴然である。それでもあえて一戦交えると言うのならば、初っ端に完膚無きまでアメリカ軍をたたいて敵の志気を無くし、それ以上の戦争を避けて早期に交渉に持ち込むしかない。」ということでした。大政翼賛会の傘下、一戦交えざるを得ない状況まで来ている日本を救う最後の手段は「あくまでも戦争はより有利な交渉を行うための手段に過ぎない。」というものであり、彼の卓越した見識と洞察力・知謀はアメリカ軍にとって脅威でした。アメリカ軍は彼をずっとマークし続け、1943年、最前の海軍基地を航空機にて視察中、敵に撃墜されソロモン上空にて戦死しました。 彼は開戦以前から「もはや艦隊戦の時代ではなく航空機の時代です。私に航空部隊を任せて下さい。」と主張したにも拘わらず、結果として艦隊司令長官として辞令を受けるという、「皮肉の人事」が歴史の分かれ道でした。当時の日本は山本元帥の考えに追いつけませんでした。もしも山本五十六が首相だったら、あのような悲劇は起こらなかったでしょう。歴史とは本当に皮肉なものです。 どうして天才はその時代に受け入れられないのでしょう。やはり時代が追いつけないからなのでしょうか。いつの時代もそうです。ソクラテスやゴッホなど、死後何年も経ってから評価される天才の如何に多いことでしょうか。結果として、その人物の評価は後生の歴史家たちが決めるものなのかもしれません。 「出る杭は打たれる」のことわざ通り、不遇な一生を終えた天才の数は数えきれません。人間とは何と愚かな生き物なのでしょうか。その天才の中の一人、山本五十六が歌い上げた歌は「人を動かすには、まず自分から手本を示し、相手によくわかるように説明をした上で、実際に体験をさせてみて、かつ良くできた場合には褒めてあげなければならない。」ということです。 人はなかなか自分の思う通りにはなりません。人を動かすにはそこまでしなければならないというのが何百万人を指揮する人物の「人心掌握術」なのでしょう。しかと心に刻まなければならない言葉です。 |
軍人=ナポレオン・ボナパルト Napoleon Bonaparte 天才的戦術家にして戦略家
(評価) 18世紀、ヨーロッパ社会は混迷を極めていました。13世紀から数百年にも亘ってヨーロッパの広大な領地を統治してきたオーストリアの名門ハプスブルグ家は、近代国家としての歩みを始め、より強い国際的地位を希望し、かつて世界帝国を築き上げた一族として、もう一度、かの栄光を夢見ていました。一方、ハプスブルグ家に対抗していたのがブルボン王朝フランスでした。フランスは、「太陽王」ルイ14世以来の度重なる戦争や宮廷の奢侈によって、国家財政は破綻寸前で、その国際的地位は大きく崩れようとしていました。そこで、ブルボン家はその財政難を乗り切り、ヨーロッパ一の名家の地位を守るためにハプスブルグ家と急接近しました。1770年、ブルボン家とハプスブルグ家は和解し、ハプスブルグ家は、フランス国王ルイ16世に15歳の皇女マリー・アントワネットを輿入れさせました。結婚が成立し、両家は世界帝国への道を歩むはずでした。 =フランス皇帝ナポレオン1世が息子、ローマ王に書き残した遺訓= |
経営者=ビル・ゲイツ その作品はマイクロソフト社
日本人が若手のクリエイターにインタビューするときに最初に聞くのは、こういう質問です。『この作品であなたは何を訴えたかったのですか?』ところが、アメリカの若いクリエイターは、そんなことは絶対質問しません。『どうやってお金集めたの?』ファイナンスの話を、一番先に聞くのです。これが、彼らが世界のソフトビジネスを作りだしていく大きなエネルギーです。 クリエイターは、お金の話をしてはいけないというのが日本人の感覚です。クリエイターは作品にもお金がかかるのだ、というのがアメリカ人の考え方です。大学での学問が実際の社会に生かされなかったら、学問としては認められません。これが世界の常識です。将来、起業家になりたいと思う人は、自分が持っているアイデア、閃きを現実の形にしていく力がないと失格です。 ビル・ゲイツが評価されるのは、ウィンドウズを作りだしたことではないのです。それをビジネスラインに乗せていく力があったことです。彼の天才性は、ビジネスに関するセンスです。 ビル・ゲイツが何でも分かるFAQはこちらから |
経営者=井深 大
ソニーの創業者、井深 大は明治41年生まれ。戦前兵庫県に在住の中学生の頃に、短波帯の受信や無線に強い関心を持ち、3BBのコールサインで積極的に運用するなどアマチュア無線の黎明期の重鎮でした。早稲田大学に在学中数々の発明を残し、卒業後は、電機メーカーの技術部門で手腕を発揮、昭和20年東京通信研究所を設立。その後、戦時中に知り合った盛田昭夫と昭和21年、ソニー(株)の前身である東京通信工業(株)を設立しました。国内電機メーカーとしては初めてのテープレコーダーやトランジスター生産へ取り組み、初のトランジスタラジオの偉業は、カリスマ的経営者の側面をもった井深ならではの功績です。 |
経営者=松下 幸之助
戦後の暗がりの中で大いなる輝きを放った --------------------------------------------------------------------------- 松下幸之助は、本田宗一郎(ホンダ創業者)、稲盛和夫(京セラ創業者)とともに日本を代表する一流企業を築き上げ、また、独自の経営思想を創り上げたという意味で、まさに戦後という時代を代表する経営者だと思います。 幸之助は小学校を4年で中退。火鉢屋、自転車屋などに奉公した後、大阪電灯の工事担当者となりました。22歳で独立し、松下電器製作所を開設。ソケット、自転車ランプなどの製造で名を知られるようになりました。その後、電気コタツ、電気コンロなど、画期的な商品を送り出していきます。 しかし、昭和4年(1929)の秋、世界的な大恐慌の余波で、販売は半分以下に低下、大量の在庫を抱え込んでしまいます。同業他社が従業員を切り捨てていく中、幸之助は「従業員はひとりも減らさない」と断言。感激した社員は、休日を返上し、二ヶ月ですべての在庫を売り尽くしてしまいました。 その後の危機の折にも、自ら営業・販売の現場に立つなど、その人心掌握術は後世に語り継がれることとなります。幸之助の言った「熱意は、あたかも磁石が鉄粉を引き付けるように、周囲の状況を動かす」は、まさにその精神を表しています。 昭和55年(1980年)幸之助は、資財70億円を投じて「松下政経塾」を創設。政治や経済、教育問題など、世界に通ずる人材育成にのり出します。 「経営の神様」と讃えられる幸之助は、このように、一介の勤労者から身を起こして刻苦勉励、電気製品を大衆化させることを通じて自らの信念を実現しました。その偉大さは、はっきりした経営哲学を持ち、それを実現したことです。 自らジャパニーズ・ドリームの体現者となった立身出世物語とも重なって、それは戦後の暗がりの中で大いなる輝きを放ちました。 以下、松下語録より。 ◇礼儀作法は人間関係を滑らかにする。社会生活の潤滑油である。 ◇いかにすぐれた才能があっても、健康を損なってしまっては十分な仕事もできず、その才能もいかされないまま終わってしまいます。では健康であるために必要なことは何かというと栄養であるとか、休養とかいろいろあるが、特に大切なのは心の持ち方です。命をかけるというほどの熱意を持って仕事に打ち込んでいる人は少々忙しくても疲れもせず、病気もしないものです。 ◇希望を失わないでやっていると自然と知恵も出てくる。精神が集中して、そこに色々な福音が生まれてくる ◇かつてない困難からは、かつてない革新が生まれ、かつてない革新からは、かつてない飛躍が生まれる。 ◇力強さは使命感を持つところから生まれる。 ◇何としても二階に上がりたい、どうしても二階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作りあげる。上がっても上がらなくてもと考えている人の頭からはハシゴは生まれない。 ◇人間万事、世の中のすべては、天の摂理できまるのが90%、あとの10%だけが人間の成し得る限界だ。 ◇絶えず素直な心になる心構えが大切でんな。 ◇本当の思いやりとは、真にその人のためになるかどうかを考えて事をなすこと。だから、時には一見冷たく見られる態度や厳しい言葉が、非常な思いやりである場合もあるのである。 ◇自分をほめてあげたいという心境になる日を持ちたい。失敗したところでやめるから失敗になりますのや。成功するまでやり抜いたら、失敗は失敗でなくなります。 ◇成功の要諦は、成功するまで続けることである。 ◇これまでの私の体験から言うと,現在与えられた,今の仕事に打ち込めないような心構えでは,どこの職場に変っても,決していい仕事はできない。 ◇人の行うべき誰にでも与えるものはある。笑顔を与える、笑いを与える。求める活動から与える活動へ転換をはかりたい。 ◇感謝の心を忘れてはならない。感謝の心があってはじめて、物を大切にする気持ちも、人に対する謙虚さも、生きる喜びも生まれてくる。 ◇熱意は、あたかも磁石が鉄粉を引き付けるように、周囲の状況を動かす。どこかまだ足りないところがある、まだまだ道があるはずだと考え続ける人の日々は輝いている。 ◇自分には、自分に与えられた道がある。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあれば、くだりもある。思案にあまる時もあろう。しかし、心を定め、希望を持って歩むならば、必ず道は開けてくる。深い喜びも、そこから生まれてくる。 ◇素直な心を根底に持ってお互いが生きていくところから、人それぞれに願い求めている真のよりよき共同生活も逐次実現し、お互い一人ひとりの幸せも高められていく。 ◇人間は千差万別の姿と心に生まれついています。従ってそれぞれの持つ使命も天分も、全部異なっているのではないかと考えられます。しかし現実の社会では、すべてを一つの型にはめよう、規制しよう、同じ道を歩ませようとするきらいが多分にあるように思われます。もちろんこうした考え方は、一面においては必要なのですが、世の中を全部そういう考え方、ものの見方で通そうとすることは、決して社会の進歩にはつながらないでしょう。ですから、人間がそれぞれに持っている特性というものをよく認識し、その特性を生かしていける共同生活を考え出さなければならないと思うのです。 |